Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

新・進化論が変わる

「新・進化論が変わる」佐川峻・中原英臣。

講談社ブルーバックスから。
なかなか、興味深く読んだ。

進化論は、その登場当時から批判が絶えないのであるが、少なくとも、現代の日本人で進化論を否定する人は少数派だろう。
生物は、長い時間をかけて、環境に適応するべく変化してきた。その変化を「進化」と呼ぶ点について、イデオロギー的な論争はあり得ると思うが(苦笑)、少なくとも進化が科学的事実だと皆が了解していると言える。

しかし、進化論には根本的な問題があった。
自然選択を認めるのは良いとしても、そもそも「獲得形質は遺伝しない」のである。ネズミのしっぽを何代にもわたって切り続けても、それでネズミのしっぽが短くなることはない。
優秀な大工が何代続いても、生まれたときから大工仕事ができるようにはならない。やっぱり、子供も一から修行しないといけない。
このように「後天的な獲得形質は遺伝しない」以上、進化がなぜ起こるのか?高いところの葉っぱを食べようとしたキリンの首が長くなったわけではないので、親キリンが艱難辛苦の末にわずかに首を伸ばすことに成功しても、子供には遺伝しないのである。

そこで、遺伝する形質となれば、それは「うまれつき」でしかあり得ないので、その変化を「突然変異」に求めることになった。
「突然変異」で生じた変化が、環境に適応していれば、有利な形質として子孫に伝わって残っていくというのが、ごく乱暴に言えば「総合説」である。

これに対して、最近の分子生物学が異議を唱えることになった。
突然変異が生じても、その突然変異は自然選択に全く影響がないか、あるいはマイナスになるものが圧倒的に多いということである。
さらに、たとえば、たくさんの群れの中で、仮に一匹だけが有利な形質をもって生まれたとしても、その形質が種全体を変化させるほど広まるには不足である。計算してみると、もっと次々と、異なる形質を持った者が生まれなくては、変化は埋没してしまうことが明らかになってきた。
つまり、ある形質が一つの種の中に広まるかどうかは、自然選択とは関係なく、その形質をもった者が同時にどのくらい生まれるかで決まるという「運任せ」じゃないか、という指摘である。
これが、木村資生の唱えた「中立説」で、今やほぼ確定的だと考えられているらしい。木村がもしも存命していれば、ノーベル賞候補だろう。

著者らが唱える「ウィルス説」は、中立説の派生系だろう。
つまり、ある種が「進化」するのに、中立説のような「運まかせ」がすべてだと考えないで、そこにウィルスによるDNAの変化を導入するのである。
先に述べたように、たまたま一匹だけが突然変異で何かの変化を得たとしても、それが新種として固定されるには「数」の力が必要である。その「数」の出現を「運まかせ」にしないで、「ウィルスによる流行」だと考える説である。
つまり、キリンの首が長くなったのは、キリンが「首が長くなる流行病」にかかったせいだ、とする。ほかにも、首長病にかかった動物はいたかもしれないが、生存には不適だったので瞬く間に滅んでしまった。だからキリンだけが生き残った、というわけである。
人類は、脳梁肥大病で、右脳と左脳の連携がとれるようになったので、飛躍的に知能が進化した、というわけである。

評価は☆☆。進化論について、その歴史や分子生物学による知見が手際よくまとめられていて、とても読みやすい。好著だと思う。

今西進化説(すみわけ理論)や定向進化説などにも触れてある。もっとも、ダーウィニズムにつきまといがちな「適者生存」の論理から、どうにか「共生の論理」に持ち込めないかという著者らのイデオロギー的な部分が、少々鼻につくかもしれない。
そのあたりは「フフン」とやり過ごすのが、本書を読む際のコツかと思う。
ダーウィンマルクスも、しょせん19世紀欧州という一地方における世界観から自由ではなかったように、著者らも、また読者も、21世紀初頭の日本から自由ではあり得ないのだしね(笑)