Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

国家民営化論

「国家民営化論」笠井潔

祥伝社の新書で、現在絶版となっている、世評も高き名著である。

「小さな政府」を、究極にすすめてみたらどうなるだろうか?この回答は、近年アナルコ・キャピタリズムが出している「国家民営化」に行きつく。この思想は、いわゆる自由資本主義の極点である。
しかし、笠井潔は、まったく正反対の方向から、同じ結論に行き着くのである。
冒頭の前書きで著者は述べる。「私は、愚かにも、武士のほうが商人よりも偉いと思っていた。それは、自分の左右などという思想的転向などより、遙かに大きな問題であった。今や、商人のほうが武士よりも偉いと気づいたのである」

笠井潔は、もともと、レーニン主義を哲学的に表現したルカーチ主義者をもって自認していた。当時の典型的な左翼学生であったようだ。ところが、そこに大事件が発生する。あの連合赤軍事件である。
この事件は、多くの左翼学生及びその支持者に衝撃を与えた。戦後の日本思想史上で「最大の事件」である。(この事件を超える衝撃はないし、現在の左翼思想が最も注意深く忌避している問題である)
著者は「革命を目指すといいつつ、実際はその過程で権力を持てば、その権力によって人間はやはり圧殺させられる」ことにどう向き合うべきか、模索することになる。ところが、この模索も、ある日突然終わってしまう。
そう、「社会主義ソビエト連邦」の崩壊、であった。「自分が生きている間は永遠に続くかと思われた悩みの根源と思っていたものが、そもそもなくなってしまった」と著者は述懐する。左右対立という軸で考えるならば、それは「歴史の終わり」(F・フクヤマ)だった。
ところが、それで世の中が良くなったかというと、まったくそうではない。何故かと考えた笠井は、ついに結論に達する。「あらゆる権力を廃して、自立するしか、つまるところ人間の自由はない」
左翼から出発した著者が、ついに行き着いた思想的結論は「究極の自由資本主義」であった。

笠井の提言は多岐におよぶが、いくつか紹介する。
まず、相続税率は100%とする。国民は「皆同じスタートライン」に立たねばならない。出発点が同じである以上、格差は容認される。「自分の手で得たものを、他人に取り上げられることはない」遺伝的有利なども、もちろん存在するだろうが、その前提をそもそも認めてはならない。
教育については、或る程度の集団教育とするが、その選択については、両親が権利を持つ。成人した後は、子供は自由に国籍を選択する。もちろん、無国籍を選択してもよい。
法人にも「寿命」を定める。いかなる巨大企業も、永遠の寿命をもつことはできないものとする。
外交のみ、或る程度の方向をもってやらなければならない。そのため、外交に関する費用のみ、税(醵金)の形でわずかを徴集する。(ここに、民主主義だけでは済まない国家の現実が顔を覗かせている)
国防はどうするか。笠井は、すべての国民に「武装する権利」を許す。ただし、武器は携行ミサイルまでとする。(さすがに個人に核武装を許す、とは言わなかった)侵略されたら、全国民がゲリラとなって戦え、ということだ。それがイヤなら、他国の支配に服せばよい。
国際貢献はどうするか。「義勇軍を募って出兵する」という。もしも、誰も義勇軍がいなかったら。「世界の嘲笑を受けつつ、カネだけ出して許してもらうほかない」だから、このような目的のみ、税の徴収は許される。それは国民の選択だからだ。
なお、ここで面白い憲法解釈を笠井は開陳している。日本国憲法9条は「国権の行使としての戦争」を禁止しているので、戦争そのものは禁止していないじゃないか、というのである。「国権の行使としての戦争」とは、つまり、国益を巡って行われる戦争であり、相手国なり民族なりの絶滅を指向した「絶対戦争」については禁止していない、と解釈する。であるから、現行憲法でも日本国または日本国民を滅亡させる国に対しては対抗し得ることになるが、そもそも第二次大戦以降は相手国の滅亡を前提とした絶対戦争しかないのだから、憲法9条はすでに「実現済」だと言うのだ。
(この論理は、現在のアフガンのように、タリバンは「国」でなく「国権の行使たる戦争」に当たらない、ただの犯罪鎮圧であり、国際的に承認された政権に関する国際支援であるとする国連解釈と通底する)

司法はどうするか。すべての裁判所は民営化される。人気のない判決を下している裁判所は、顧客を失うことになる。裁判所といえども、自由競争にさらされる。
強制執行は、それ専門の会社が行う。
なお、刑事事件についても、同様に民間裁判所で判断がくだされるが、被害者本人がいなくなった殺人事件では、親族が判決に不服の場合は「決闘権」を持つことができる。決闘はロシアンルーレット方式で行われる。自分に危害が及ぶ危険のない状況での刑の執行を望むことは、完全に自由な社会では認められないのである。
福祉はどうするか。福祉は、単純に民間保険会社による各種年金や保険の販売による。それぞれ好きなプランを選択すれば良いが、その結果については個人が責任を負う。
天皇に関しては、当然ながら法的制度としては存続しないが、天皇が存在する自由も当然ある。よって、天皇は日本神道の祭司長の立場に戻り、自由な宗教市場で競争することになる。

評価は☆☆☆。日本のアナルコ・キャピタリズム新自由主義、と訳される)の一つの頂点を示した書である。絶版はあまりにも惜しい。ちょっと奮発してインターネットで古書を買うしかないが、その価値は充分ある。(私はそうした)
しかし、そのような形態でしか本書が手に入らないのは、自由を考えたい人々にとっては損失である。単に、本書が入手難である以上の問題は、このような優れた著作に対して、古書では著者に印税が入らないからだ。復刊を強く望むものである。

国家とは、最後までつきつめれば、それぞれ国民(だと思っている人々)の一人一人の胸の中にしかないものである。国家の存続は、国家があることを「自由な意思で選択した」国民の意思と、その意思が国際的に認められること(つまり、他の国家による承認)に基礎をおくものである。
そのどちらが欠落してもいけない。国民自身が国家の存続を願わなければ、他国に統合されるであろうし、他国の承認を受けられなければ国は他国の介入によって滅亡する。
ただし、国民自身が存続を望まない場合は、多くが平和的かつ無気力に他国の支配に服するし、他国の承認に失敗すれば戦争や武力介入によって滅亡するわけで、前者の滅び方のほうが損失が少ないので賢明である。
現状、これらに鑑みて順位づけをすれば
自由な意思による国家の存続>国民の無気力による滅亡>他国の承認を得ることに失敗した滅亡
となる。
なお、自由な意思によらない国家の存続(多くは独裁国家)に関しては、どこに位置づけるか難しいが、その多くが「他国の承認を得ることに失敗した滅亡」に至るだろう。

本書は、国家の民営化という問題に関する思考実験の書である。その論理は、一貫して透明で、一つ一つが納得させられる結論に至る。
しかしながら、完全民営化に関していえば、外交だけ、その可能性を見いだすことが出来なかった。あくまで自由な選択による民主主義、という視点に立脚した場合、その視線は「国民」しか視ていないのであるが、現実には「国際社会」つまり他国民の承認がなければ国は成立しないので、その手段を外交のほか見いだすことができなかったのである。
これが「新自由主義」の現在における地平なのであり、「世界政府」というおぞましいものを持ってきて説明してしまえば、それは既に「自由な」世界とはいえない、という矛盾にぶち当たる。
別の回答が必要なのである。
私は、その「別の回答」を見いだしたと思うが、それは別の機会に与太話として書こうと思う。

おそらく、日本の政治思想史における異端の一極点として、特筆されるべき書であろう。間違いなく、名著であると断言する。機会があれば是非一読されたい。