Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

天皇・反戦・日本

天皇反戦・日本」浅羽通明

「右翼と左翼」「アナーキズム」「ナショナリズム」と、たいへん見通しのよい著書を連発している著者による有料ニューズレター「流行神」から抄録、加筆を行ったもの。
それにしてもこのタイトルは、これはわざと、であろう。浅羽氏が最近主張しているらしい「昭和30年代主義」の現れ、かな?(笑)

著者は、前記の新書本について「知のカタログ」を目指した、と書いていた。往々にして政治的テーマというのは、自分がどちらを支持していて、そうでない相手は阿呆である、といった論調になりがちだ。
政治的な題材というのは、そういう性格しか持ち得ない、とも言える。笑い話に、左翼も極左から見れば唾棄すべき保守反動、というのがあるわけで(もちろん、左が右に変わっても事情は同じである)どうやら、人間はいかに他人に対して不寛容な存在であるかを、しみじみと味わえる著作が多いのである(苦笑)
そこで、あえて「知のカタログ」として、これら政治思想の輪郭だけを抽出してみせた、その著者の手腕はすごい、と思った。

それらに比べると、本書は、有料のニューズレターを購読している読者向けの著作だから、浅羽氏自身の見解が色濃い。知のカタログシリーズとは異なるので、たいへん興味深く読んだ。

内容を思い出せる範囲で軽く紹介すると。

まず、やんごとなきところの「人格否定発言」について、何故皇室においては「側室」をおけないのか?と考察する。つまり、皇室そのものが、日本の近世から近代への橋渡しの役割を果たした存在だから、やはり前近代的なことはできないわけである。
そして、いわば「近代化にのりきれない」日本人を、天皇制が代わりに背負った例として、いわゆる「人間宣言」をあげる。詔書には、どこにも「私は神ではない」などと書いてない。ただ、日本人自身が「そう思いたかった」だけである。三島の「などてすめらぎは人となりたまひし」という批判は、実は天皇ではなく、日本国民自身に向けられるべきだった。
そういう、いわば、日本の背後の無責任システムの表象として天皇制があるわけなのに、左翼は天皇制そのものを批判する、という意味で、まったく三島の勘違いと同じである、と指摘する。
そして、その矛盾を突くべき右翼は、これも馬鹿なので(苦笑)単に、左翼に反発するだけで終わっている、という。
そして、天皇制を支持するならば、たとえば皇室の配偶者になるという不自由を、自分の子供に負わせる覚悟はあるのか?と問うのである。そんな可能性は、万に一つ以下だと思っているだけじゃないか、と指摘する。「無責任システム」である。

反戦に関する論理も、同じスタンスで通底している。
自衛隊という「特殊な人々」に、実際の負担を回して平和を貪るだけの話ではないのか、と言う。
著者は、実はイラク派兵で、もしも自衛隊員が一人殺されたら、そのたびに声明を出して同じだけの人間が自殺する、という抗議手段を考えていたらしい。
そして、その一番槍を自らがつとめよう、と思い詰めていたという。イラクにおける死を、本当に自分の身近なもの(もっとも身近なのは、自分自身の死である)としなければ、反戦論など成り立たない。
しかしながら、現実は、遙かに著者の予想の上を行っていた。自衛隊は、なんと他国の軍隊に守られながら、もっとも安全だと言われる片田舎に赴任して、誰も犠牲者を出さなかったからだ。
これが日本の現実だ、と著者は言う。

面白いのは靖国参拝で、著者は靖国を「明治以来の欧米に対抗しようとした日本的革命精神が眠る場所」と総括する。
すると、たとえば戦後の海上自衛隊で、朝鮮戦争における掃海作業の犠牲者中谷坂太郎氏について、遺族が靖国合祀を求めている件で(掃海作業は政府命令によっている)気持ちはわかるがムリだ、という。
言うまでもないが、これは殉職であるが、日本の対欧米革命戦士の死とは言えない、と。
そして、それよりも相応しいのは、樺美智子ではないか、と言うのだ。
論理というものは、貫徹させると、とんでもない結論を出す場合があるもんですなあ。

評価は☆☆。かなり面白い。

言うまでもないことであるが、本書の個々の政治的主張なり、その立場を、私が肯定している、というわけではない。
そうではなくて、そういう結論に至るまでの「知の輪郭」の問題である。だから面白いし、考えさせられるのである。そうでなければ、ただの政治的パンフレットに堕してしまうだろう。
あくまで、ひとつの著作物(作品もしくは、本書を購入した消費者としての商品の品質)として、高いクオリティである、と思う。

ついでに言えば。
著者が執拗に追求する無責任な国民に関してであるが。
浅羽氏自身が「ナショナリズム」で指摘したように、つまり保守的国家(海洋国家または自然国家)というのは究極のエゴイズム集団であり、その論理は、実は弱者のためにある。戦争においては、民族防衛のための国土防衛戦争が基本であり、民族防衛のためであれば侵略戦争も防衛戦争と呼称する。(まあ、勝った戦争は、みんな防衛戦争になってしまう、というほうが正確か。。。)
一方で、いわゆる大陸国家は、理念のために国民の結集を要求するから、そのためにナポレオン戦争に見られるごとく「民主主義の輸出」をやろうとする。その論理自体は、旧ソ連コミンテルンブッシュ政権だって共通している。もっといえば、アフガンに手を出したのは民主党クリントンだったし、その理由は人権問題だった。そして、徴兵制度の一方で、選挙権が与えられることになった。権利と義務が対照でなければならない、戦地に行く以上はものを言えなければいけない、という考えが前提になる。
権利だけ主張して義務を負いたくない、というエゴイズムは、実は民主主義国家にはそぐわないので、本来は保守的国家を標榜しなければおかしいのじゃないか、となる。
つまり、民族のエゴイズムがあってこそ、アメリカに適当に中東でやらせておいて、なるべく安全なところで「適当にやったふり」だけしておき、権利だけは一人前に主張しよう、という作戦が生まれるわけだ(笑)
それを不正義だというなら、やっぱりアメリカそのものに反対するか、もしくは逆に、積極的に重荷を背負うしかないだろうなあ。。。

私は、もちろん、心の底から「腰抜け」でそのくせ得なことが大好きなので(笑)犠牲が出ない限りは適当に「やったふり」でいいじゃないか、と思っている。無責任を全開すべし、という考えなのだ。
これは、武士の思想ではなくて、商人の思想である。しかし、それこそが、或る意味で歴史的に正しい、日本的な無縁の世界の系譜を継ぐ商人=近代思想じゃないか、などと思ったりもするんだけどな。
正しいことなんて、そんなもんはちっとも儲かりまへんがな(苦笑)