Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

民主主義とは何なのか

「民主主義とは何なのか」長谷川三千子

我々は、民主主義というものを、まったく疑う余地のない公理として受け入れている。悪人がなぜ悪人と呼ばれるのかは(悪人が政治家であれ悪徳業者であれ)つまるところ、彼が「民主主義」に背いているからである。
また、かくかくすべき、という政治的主張をする場合に「それが民主主義だから」そうすべきなのだ、と言う。まったく疑う余地のない一種の公理系である。

しかし、長谷川氏は、この「民主主義」に、正面きって疑問をぶつけるのだ。「そんなにいいもんですか、民主主義?」

その疑問を探求するために、長谷川氏は民主主義発祥の地、ギリシャのポリスにまで遡る。そこで見出した民主主義とは何だったか?
それは、いわゆる寡頭政治をさけるために、次々と有力者を追放し、そのことによって次の有力者が民衆の支持を得るという、まさに「民衆による僭主政治」であった。
人は、これをデマゴーグと呼ぶ。しかし、かのプラトンが喝破したように、民主主義とデマゴーグは区別不能であり(もしくは結果論であり)デマゴーグは僭主を生み出す。僭主は、次のデマゴーグによって倒される。この、常に権力者が倒されなければならないという「不和と敵対のイデオロギー」こそが、民主主義なのではないか?という考察にいたる。
プラトンは、この血なまぐさい動態を終わらせるべき「哲人政治」を夢想したが、もちろんそれは夢想に終わった。

そして、我々の政治形態の直接の祖であるフランス革命、あるいアメリカ独立はどうか?
ここに、まったくギリシャ時代と同じ、民衆の熱狂と虐殺をみてとることができる。ただ、その熱狂と虐殺の根拠が、王権でなくて「民衆の支持」に変わっただけなのだ。

近代民主主義思想の祖を振り返るとき、おそらく、ルソー、あるいはジョン・ロックという思想家にたどり着くわけだが、ここで長谷川氏はある告発を行う。すなわち「ロックこそ、ペテン師だ」というのである。
それは、ホッブスとの対比によって、より鮮明になる。

ホッブスは、人は誰でも「自然権」を持っているとした。しかし、その状態のままでは、人はお互いに闘争するしかない(万人の万人に対する闘争)。このような状態のままでは、弱肉強食にいたるだろうか?
ホッブスは、そういわない。いかなる強者でも、眠るし、風呂に入るときは裸になり、便所では尻を出す。つまり、いかなる強者といえども、決して安寧ではなく、弱者であっても一瞬の隙さえあれば強者を殺し得る。この世界では、いかなる強者であっても、安心することは許されないのだ。
そこで、なんとか彼らが生き延びんと欲するなら、互いが持っている「自然権」を放棄して、徒党を組み、互いの安全を確保しなければならない。これが法である。法を支える民主主義は、すなわち、互いの安全保障の必要から、お互いの持つ権利を放棄しあった互譲から生じているとする。

ロックは、これに対して、人間はそもそも自然状態ですでに平和なのだと言う。各人は、その平和のもとで、互いに自然権生存権、所有権)を持ち合っている。ただ、ふとしたことから、この状態が壊れないように、権利を一部、権力者に預けてあるだけなのだ。
よって、権力者が何か彼らに不都合を行ったときは、いつでも預けてある自然権を取り返して、権力者を打倒してよい。(革命権)

ロックの革命論は、そもそも名誉革命を弁護するための論法である。血なまぐさい革命を正当化するための論理がそこに透けて見えないか。
ホッブスの民主主義論では、民衆は自然状態に戻ってはいけない。そのためには、自制と理性が要求される。
ロックの革命論によれば、自然状態は当然いつでも取り返してよいものであり、自然状態を曲げている悪役は権力者にほかならないことになる。
長谷川氏は言う。「それならば、そもそも自然状態を放棄する必要はないはずではないか」

そして、終章にいたって、長谷川氏はついにこう述べる。

実はまさに、「思考停止」ということこそ、民主主義が自らの最上の武器、最上の従者として従えてきたものなのである。

このような「民主主義」の対極に、描いてみせたのは聖徳太子の「17条憲法」の世界であった。
第17条は、こうである。

「夫事不可獨斷 必與衆宜論
 少事是輕 不可必衆
 唯逮論大事 若疑有失
 故與衆相辨 辭則得理」
 (物事を決めるときには、独断によらず、必ず皆と相談しよう。小事は決断の価値も軽く、これは相談しなくてもよい。しかし大事を決めるときには、あやまりがないかどうか、常に己を疑ってかからねばならぬ。だから、そのときには皆と相談し、お互いの言い分を理解し、誠心誠意考えていけば、おのずともっともよい解決が見えてくるものだ---single4超訳
 
 一方で我々のもっている理性と、民主主義の有様はどうであるか。
 本書に言う。
「反対者を説得するためにのみ、自らの理性を使い、言葉を使う。それが「議論」というものなのだ、と民主主義者は思っている。
けれども、このような「討論と説得」などというものは、議論のもっとも堕落した形のひとつにすぎないのである」

考えさせられるところが多く、深く感銘を受けた。
☆☆☆である。

余談であるが。
最近、ブッシュ大統領に靴を投げたイラク人記者が話題になっている。彼こそ英雄だというわけだ。
しかし、つい数年前に、フセイン銅像が倒されたときに、その銅像は靴でたたかれていたではないか。
ならば、なぜフセインに靴を投げる記者はいなかったのかね?ブッシュよりもマシだからか。そうではあるまい。
あるいは、独裁者がいなくなり、皆が自由になって、イラクはすばらしくなったか?実際には、より血なまぐさくなっただけでないのか。
そうして、「当然の権利」をふるう人たちが(テロリストが)いることで、イラクはよい国になったのだろうか。

私は、ぜんぜんそうは思わない。今、イラクに必要なのは、民主主義の言い方をするならば、皆がもっている「当然の権利」を捨てて、どうすれば国が立ち直るのか、宗派を超え民族を超えて虚心坦懐に話し合うことのように思われる。
そういう立場で考えると、実は、そのような「当然の権利を行使する人々」(=テロリスト)を擁護する「知識人」を、私はまったく信用しない。彼らが、血なまぐさい行為を正義と呼ぶのである。

私は無力な民衆の一人である。私は、自分の権利を放棄してもよい。その代わり、わずかな幸福が欲しいだけなのだ。