Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

浄土の帝

「浄土の帝」安部龍太郎

日本史の中でも、平安時代の終わり頃の戦乱は、いちばん複雑でわけがわからん時代ではないかと思う。
保元の乱平治の乱平清盛が出てきて壇ノ浦で終わって、源頼朝が出てくると、まあまあ風通しがよくなる。
だいたい日本史の先生は「貴族の時代の終わり、武家の台頭」という一言で片付けてしまうわけだが。
あと「国家鎮護仏教にすがるばかりで、なんの力もない貴族と、荘園を領地化してのし上がる守護、地頭」という説明とか。
ひどく簡単に言えば、平安末期は「台頭する新勢力に注目!」でチャート式は終わるような気がする。あくまで鎌倉時代の準備、というわけだ。

であるから、この小説のように後白河院を主人公に据えたというのは、たいへん珍しいのではないか、と思う。

まず頭に入れておかないといけないのは、この時代は「院政」だということである。まず天皇になり、さっさと退位して上皇または法王になる。そうして藤原氏あたりとくっついて、政治の実権をふるうわけである。
天皇は、もちろん至尊の存在であるが、その偉さは「高天原代理人」であって、現世の政治権力とは無縁という話になっていた。名誉あるが力はないわけである。
しかし、天皇を退位して上皇になると箔がつき、いろいろと強引な政略もできるので(天皇尊い身分なので、そんなことはしちゃいけない)院政ができるのである。
その上皇になるのも資格があって、単に天皇を退位しただけではいけない。天皇の直系の親筋にならないといけないのだ。このあたりは、いわゆる直系男子相続の考え方の原点だと思えるのだが、つまり次の天皇が弟だったら、退位しても上皇になれない。
院政を敷くには、自分の血を引いた子供を次代の天皇にする必要がある、というわけである。
そこまでわかると、天皇の系譜に「○○統」ができて、相続争いが起こる理由がわかってくる。
ふう、くたびれた(苦笑)

後白河院は、平安末期の衰退する貴族政治の象徴だと捉えられているので、あまり評判はよろしくない。
しかしながら本書を読むと、なかなか若い頃から今様に凝る等、風流で洒脱な人物であったようだ。
まったく皇位につく予定もなかったが、子の守仁親王を次の皇位につけたい貴族連中の思惑のために、突然皇位を継承する。だから立太子しないで天皇になられた人である。
このあたりからわかるように、後白河院そのものが暗愚だったとか、野心家だったということはなく、本人はあくまで芸能の人であり、熱心な仏教徒であるにすぎなかった。
ただ、時代の流れから、天下大乱の一因とされてしまったのにすぎない。
むしろ、芸術家としてみれば、優れた才能をもっていたようにも思えるのである。

評価は☆。この不可解でわかりにくい政争の中で、才能ある個人だった後白河が思うさま右往左往させられる有様を描く。
多少、背景が煩雑なのは、本当に煩雑な次代だったから仕方がないのである。
どちらかといえば、暇な受験生にもお勧めの内容であろうが、、、まだるっこしいかな(笑)

本書を読みながら思ったのであるが、政治が荒廃し、責任ある立場にある人が個人的な欲望のままに既得権益の保持に汲々としている世相は、現代とも大変似ている。
しかし、今の世の中には、幸か不幸か平清盛のような、器量のある新勢力の頭目も見出すことができないように思うのである。
それは、民主主義であるから、そのような独裁的なカリスマが現れるよりは、まだ不確実な世の中のほうがマシだということもいえるわけだ。英雄待望論は、民主主義の衰退だからして。

とすると、我々は、この不毛なる現代を、とにかく生き延びるよりほかに仕方がないわけである。
難儀な時代だなあ、としみじみ思うのだ。まあ、じたばたしてもしようがない、ってことでしょうか。