「西行」白州正子。
福田和也先生によれば、女流作家で「もっとも賢く見える」のが白須正子なのだという。つまり、なまなかな知識では、おもしろく読めない、興趣を存分に味わうためには相当高度な見識の裏付けが必要だ、ということである。
ふむふむと、私などは野次馬根性丸出しの大衆であるから、さっさとこの文庫を購入。
うむむ、、、なるほど、なあ、、、とうなるばかり。
ふむふむと、私などは野次馬根性丸出しの大衆であるから、さっさとこの文庫を購入。
うむむ、、、なるほど、なあ、、、とうなるばかり。
「空になる 心は春の 霞にて 世にあらじとも 思い立つかな」
題は「空になる心」。ここから、著者は西行を「仏教者」「修行者」ではなくて、いわゆる「数奇の心」としてとらえているのである。
このスタンスが全編に貫かれる。
たとえば有名な
「なにごとの おわしますかはしらねども かたじけなさに なみだこぼるる」
などについてもそうであろう、と著者は指摘する。
西行の信仰は、深くはあるけれど、たとえば阿弥陀様だとか観音様のような特定の対象をもっているのではない。
それは、いわば、日本の原風景に根ざした一種のアニミズム的な素朴な信仰心にあるのではないか。
そういう意味で、西行の歌を「仏教的修行の成果」とは見ないわけである。
このスタンスが全編に貫かれる。
たとえば有名な
「なにごとの おわしますかはしらねども かたじけなさに なみだこぼるる」
などについてもそうであろう、と著者は指摘する。
西行の信仰は、深くはあるけれど、たとえば阿弥陀様だとか観音様のような特定の対象をもっているのではない。
それは、いわば、日本の原風景に根ざした一種のアニミズム的な素朴な信仰心にあるのではないか。
そういう意味で、西行の歌を「仏教的修行の成果」とは見ないわけである。
また、あの有名な
「ねがわくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月のころ」
については、どちらかといえば、若者の理想主義的な「青臭さ」が残るところが、あまり西行らしくないのではないか、と語る。
なるほど、言われてみればその通りである。
「ねがわくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月のころ」
については、どちらかといえば、若者の理想主義的な「青臭さ」が残るところが、あまり西行らしくないのではないか、と語る。
なるほど、言われてみればその通りである。
評価は☆。
和歌の造詣がなければ、本書の真価を語ることも難しい。しかし、薄い本ではあるが、きっと嘗めるように味わいつつ、少しづつ読むのが正解なんだろうと思える。
私のように、生硬な翻訳ミステリを馬車馬のように読みとばすような読書スタイルの人間にとっては、このような書物は貴重である。
和歌の造詣がなければ、本書の真価を語ることも難しい。しかし、薄い本ではあるが、きっと嘗めるように味わいつつ、少しづつ読むのが正解なんだろうと思える。
私のように、生硬な翻訳ミステリを馬車馬のように読みとばすような読書スタイルの人間にとっては、このような書物は貴重である。
そして、読み終わると、なんとのう「日本はよい国だなあ」としみじみ思ってしまうのですな。