Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

歌の翼に

「歌の翼に」T・M・ディッシュ。サンリオSF文庫、絶版。

かつて、3Dと呼ばれた作家に、P・K・ディック、サミュエル・R・ディレーニ、そしてT・M・ディッシュがいる。
SFといえば、宇宙怪獣がでてきてドンチャカ、などというのは日本だけの先入観である。
60年代のNW(新しい波)運動を契機にして、SFは「思弁小説」スペキュレイティブ・フィクションとなり、その後、サイエンス・フィクションへの揺り戻しがあるのだが、しかし単純なスペース・オペラにはもう戻りようがなくなった。
社会的な思考実験小説の色彩を帯びてきたわけだが、その一方で、NWは「面白くなかった」ので(笑)面白い小説にしよう、という反省もあって、冒頭の3Dに至る。
つまり、これらの作家の特色は、思考実験的な要素がありつつ、面白い小説だということになる。

舞台は、近未来のアメリカである。主人公のダニエルは、幼いときに母を亡くしているが、その原因は母が「飛ぼう」としたことであった。
この世界では、飛翔装置なるものがあり、その装置を使って歌を歌うと、空を飛ぶことができるのである。ダニエルの育った州では、これは違法行為であり、母親は飛ぶことに失敗して死んだ。
そのうち、大不況が訪れるが、ダニエルは違法な新聞を配って収入を得る。それが露見して、彼は刑務所に入れられてしまう。
その刑務所の中で、ダニエルは「飛ぶ」ことに目覚める。しかし、彼の歌の才能はまだ開花せず、飛ぶことはできない。この世界では、歌が上手くないと飛べないのである。ダニエルは音痴だった。
やがて刑務所を出所したダニエルは、大金持ちの娘と恋仲になり、結婚する。新婚旅行で、彼らは行き先を変更し、国立飛翔基地というところにいく。
そこで、二人は飛ぶことに挑戦し、彼の妻は飛べたが植物人間のようになってしまい、ダニエルはまったく飛べなかった。
社会的には彼ら二人は消えたことになってしまい、ダニエルは変名を使って、劇場に勤務する。
その劇場で、チップをもらいながら、植物人間となった妻の医療費を稼いだ。
ある日、劇場の有名歌手に、その才能を認められたダニエルは、彼から歌のトレーニングを受ける。代償は、ダニエルが歌手の愛人になること、つまり男妾であった。
やがて、ダニエルの歌の才能は認められる。彼は、ついにリサイタルを開くまでになったのである。
そのリサイタルの日、自主興行であるため費用を工面できず苦しむダニエルの前で、植物状態だった妻が目覚める。
彼女は「あなたは、飛べる」ということを伝えるために復活したのである。
それをダニエルに伝えた後、彼女は再び飛ぶ(死んだのである)。
そして、ついに物語の終幕、ダニエル自身も飛ぶことに成功した。

ディッシュ最大の傑作、と言われている小説である。
主人公の境遇は、まさに悲惨な有様なのであるが、彼はまったくそんな様子を見せない。自己憐憫のかけらもないのだ。
物語後半の彼は、文字通り生活苦の連続だし、人から蔑まれるような体験もずいぶんする。しかし、彼は歌をあきらめない。
物語のラストでは、飛ぶことと死は直結しているのだが、それは幸福な結末かもしれないと思わせられる。
彼は、自分の人生を生ききったし、もう生活に苦しむことはなく、夢を実現し、最愛の妻とあの世で会えるかもしれない。
死は、多いな赦しとして描かれる。あえていうならば、これは既にキリスト教的な終末ではなく、むしろ仏教に近い。

たしかに、面白い小説であり、傑作と言われるだけのことはある。
ただ、作品中のメタファーは、ある意味でベタにすぎるだろう。もう一ひねり、という気持ちもするのである。
小説は、演説ではない。本人の主張はどうでもよく、小説として優れていればそれでいいのだ。それは、読者の特権である。
小説を書く人は、書きたい動機があるから、しばしばそれが主張として現れる。
その主張が鼻につくようだと、小説はつまらない。
本書はそういうことはないのだが、けれども、やっぱり気になるところがある。
私の若い頃は、そうではなかった。今よりも、頭で小説を読んでいたからだろう。
今は年をとったので、もっとわがままになってしまった(苦笑)

いろいろ考えて、☆2つ。

昔と違って、主人公の生活苦のつらさはよく分かるようになった。
眠りっぱなしで介護費用のかさむ妻にむかって「もう僕は充分にやった、許してくれ、目を覚ましてくれ」と訴える主人公の心情は、以前よりも遙かに理解できるようになったのだ。
それが、良いことなのかどうか、わからないのだけどねえ(苦笑)