Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

占い

私は、かつて易学に凝ったことがあった。
なにしろ、悩みの多い凡夫だから、未来が不安である。その点、占いというものは、すこぶる便利に出来ているのである。

占いが、当たるか当たらないかといえば、それは「当たる」。ただし、「ことの起こった後ならば」という注釈がつく(笑)
これから起こることを予言せねば占いではないのに、過去のことしか当たらないのが占いというものである。
つまり、野球の解説と同じで、あとから「かくかくしかじかであった」という、その解説が見事であれば、つい「これはあるかも」と思ってしまうのだ。
占い師は、その人間の心理を利用する。人間は、ふつう「過去のデータ(つまり実績)」で、物事を判断するように出来ている。であるから、過去を理路整然と説明できてしまうと(実績のようにみえる)つい未来も信じてしまうのである。

本当に占いがあたるかどうか、それは未来を語らせれば、たちどころに判明するのである。
あとから「実は当たっていました」という奴は、偽物なんである。

しかしながら、占いに効用がないか。
実は、ある。

占いでは、未来の予言を求めるわけだが、実はきちんと教育を受けた人間であれば、たいがいのことはおよそ予想がつくものである。
たとえば、あなたが誰かに恋をしていて、しかしその相手には現在恋人がおり、その恋人はどうみてもあなたより器量もよく、周囲の評判もよく、頭脳もそれなりで、あなたがその反対だとして、「告白したらどうなりますか」などというのは、誰でも結果が想像がつく(笑)
そういう時、占いは、なぜか「ちょっと、今回の相性はイマイチ」だと出たとする。それは、心の慰めになるだろう。
あるいは「勇気を出してトライ」となったとする。まあ、思い出にはなります(苦笑)
そういう効用はあるわけである。

もっと難しい問題が、人生にはある。
人は、本当は、回答を知っていることが多い。しかし、その回答は、いろいろな要素によって隠れている。
みたくない事実や、認めたくない欠点、はかない希望、あるいは小心さ、また世の中の不透明さ。あげればキリがない。
しかし、人はそれでも、とにかく選ばなければいけないことがある。
多くの人は、半分無駄だと知りながら、占いを聞いてみるものだよなあ。

易経は、今でも愛読書になっている。
信じるというのではない。易経の根底には「どうしようもないときは、どうしようもない。無駄にあがくな。また時節がくる」という、一種の諦観が流れている。
人生は、そういう場合もある。
悲しみや焦りを、時間が解決するしかないときだって、やっぱりある。
占いで、心が落ち着く手がかりになれば、それでいいだろう。
それ以上を求めてはいけない。

易経の山水蒙という卦について、私流の勝手な解釈をしてみよう。こんな読み方をしているのだ。
原文「蒙は、亨る。我童蒙を求むるにあらず。童蒙来りて我に求む。初筮は告ぐ。再三すれば涜る。涜るれば告げず。貞しきに利あり。」

解釈)悩み苦しむ、道理に暗いあなただけど、まあ、なんとかなるさ。あなたが道理に暗いのであって、世の中のせいにしてはいけないよ。この占いだってそうだ。よくよく考えて、出た結論は、あなたが知るとおりである。しかし、それを認めないあなたは、何度も占いを繰り返す。無駄と知っているだろう?だから蒙昧だというのだ。それじゃ真実には近づけないよ。自分で、自分の状況を謙虚に認めたら、どうするべきかは自然にわかるはずだよね」

さて。いかがでしょう(笑)