Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

歎異抄

歎異抄親鸞川村湊による現代語訳(光文社古典新訳文庫)。

あまりに有名な本であるが、未読であった。
古文をそのまますらすらと読めるほどの見識がないのである(泣)
しかし、この本は読みやすかった。なにしろ、現代語訳でしかも「関西弁」なんである。
こりゃあ読み安うてええがな(笑)

歎異抄」は、親鸞の弟子の唯円が師匠との問答を書き残した書物である。

現代人の誤解する言葉の筆頭は「他力本願」であろう。この言葉、ともすれば「他人まかせで、いい加減な物事の対応」というような意味で使われていないだろうか。
しかし、そもそも「本願」というのは「阿弥陀様の願い」だから、これは全然意味が違うのである。
「他人まかせで、いい加減な物事の対応」をするのは「誰かがなんとかしてくれるだろう」という「自分の願い」である。そんな願い、誰が知るかっちゅうねん(苦笑)
本書では、このように翻訳されている。
「アホで悩みっぱなしのワテらは、いくら何をやったところで、悟りなんかひらけるもんかいな。それを見越してアミダはんが、可哀想なやっちゃ、こらあ、いっちょう救ったろかいなと、願かけしてくれはったんや。悪い奴を往生させたるというのやから、『ひとまかせ』で『お願いしますわ』と一途に思うとる悪人が、いちばんに往生してしまうんは、理屈に合うとるわけやな。そやから、善え奴でさえ往生する、ましてや悪人が往生するいうのは当たり前のことやないかいな、と(法然はんは)いわはりましたんや。」
これぞ「他力本願」であり、有名な「悪人正機説」である。

私が、本書を読んで、たいへんに印象に残ったエピソードがある。
親鸞さんが唯円さんに「あんさん、ワテのいうとおりに、なんでもするかいな?」と尋ねる。
唯円さんは「そらあ、師匠のいわはることやさかい、おおせのとおりにしますわ」と答える。
そこで親鸞さんは「わかった。ホナ、千人あやめてくるんや。ほしたら、極楽往生間違いなしやで。どや?」と言う。
唯円さんはびっくりし「堪忍しとくなはれ。そないに恐ろしいこと、一人でもできまへん」と答える。
そこで親鸞さんは言う。「そんなら、なんで、なんでもすると言うたんや」唯円さんは言葉もない。
親鸞さんは更に言う。「どや、わかったやろ。自分が極楽浄土に行きたいと思うんなら、千人あやめるはずや。けども、一人もあやめることはできへんような宿縁やから、それはできへん。それは格別な良心ということでもあらへん。反対に、まったくそのつもりはのうても、百人千人をあやめてしまうことだってあるんやで。」

このエピソードは現代人からすると、宿命論を説いたと解釈されることも多いが、やはり他力本願を説いたと考えるほうが筋が通っている。
単に、過去のことは変えることができないし、他人や環境を変えることもできない。できるのは精一杯やることだけである。
であるから、その結果が良かろうと悪かろうと、それをすべて自分の努力の結果と思うのも間違っている。ともかく最後は阿弥陀様が救ってくださるのだから、安心して頑張れ、という意味なのだろう。
他力本願は、決して他人の力をアテにすることではない。そもそも他人がアテになりまっかいな(笑)

余談だが、そのまま「はい、じゃあ千人あやめますわ」とやってしまったのがオウム真理教じゃないかと思う。
私は、オウム真理教の事件に、釈尊提婆達多(ダイバダッタ)の争事を想起する。
堤達は、5つの戒律を教団に提案して釈尊の同意を得られず、教団を去って分派をつくるのである。5つの戒律は以下の通りである。
  1. 人里離れた森林に住し、村邑に入れば罪となす。
  2. 乞食(托鉢)をして、家人から招待されて家に入れば罪となす。
  3. ボロボロの糞掃衣(ふんぞうえ)を着て、俗人の着物を着れば罪となす。
  4. 樹下に座して瞑想すべきで、屋内に入れば罪となす。
  5. 魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪となす。
ちなみに糞掃衣(ふんぞうえ)とは、墓地に埋葬された人の衣類であったらしい。当時の衣類は貴重品であるから、つまりはボロという意味になる。
この戒律をみて思うに、堤達の提案は仏教の「原理主義」であろう。
釈尊は、原理主義を退けられたのである。
原理主義は、オウム真理教もそうであるし、あるいは現代のイスラム教、あるいはキリスト教にみることもできる。ハッキリ言うが、幸福な結果にはなっていない。
単に反米であるからという理由で原理主義を賛美するのは、たいへん浅はかな判断であると思う。

唯円さんの著書を評価の対象にはできないので(そんなおそろしいことはできません)川村氏による現代語訳を評価させていただくが、☆☆☆である。
少なくとも、私には大変面白く読めた。解釈も大いに頷けるものであった。
ただし、関西弁文化に慣れていない方には、違和感があるかもしれない。(川村氏はネイティブな関西弁でないそうで、ほんものの関西弁の方がどう思うかはわからない)
とりあえず一読、という私のようなものぐさ人間には非常によかった、ということである。