Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

菊と刀

菊と刀ルース・ベネディクト

日本文化と欧米の文化を「恥の文化」と「罪の文化」と対比してみせた本書は、日本人論として不朽の価値を誇っている。
本書が、アメリカの占領政策のため生まれたという過程を考えるにつけ、本書自体が「気分でなく、綿密な資料(事実)の蓄積に基づいて推論を導き出す」という近代科学精神(=ルネサンス以来の)欧米精神の賜であるといえる。
日本人は、アメリカに武力で屈服したのみならず、その精神主義が、本書の実証主義に敗れ去ったのだった。
本書を読んだ日本人の衝撃は、まさに「ああ、これは負けるわな」という実感を伴ったものだったと思う。
それまでは、「武力、物質において負けたが、日本の精神や文化が負けたわけではない」という理屈だってあったのだ。
その理屈は、大いに一部の日本人を慰めた。しかし、本書の登場によって、やっぱり文化的にも「こらあかんわ」が決定づけられた。
それ以後、まさに日本は「科学の国」鉄腕アトム目指して疾走することになったと思うのである。

ところで、私も一昨日のワールドカップを見て、大いに感動したクチである。
ふだんはサッカーファンではないのだから、にわかファンもいいところである(苦笑)。
私は、流行には弱いのだ。

で、そのサッカーを見ながら、なんで大いに感動したのか?ということである。
さんざん評論されていることだと思うが、やはり「諦めないひたむきさ」「団結力」「犠牲的精神」に感動したのである。
相手国は、日本人選手よりも明らかに体格も大きく、テクニックもある国ばかりであった。
これに対して、日本は、相手よりも走る(努力)、仲間をフォローする(組織的な団結力)、必要な場合は躊躇なく体をはる(犠牲的精神)によって、世界を驚かせたのである。
この光景に、多くの日本人が共感し、涙した。

はて、これについて、なにか気がつきませんか?
「相手は体格においても技術においても勝る」=「相手は物量においても技術力においても勝る」
組織力と団結力、犠牲的精神で打ち勝つ」。。。
もちろん、その結果は「世界を驚かせる」のだが、やはり「最後は敗れる」のだ。

では、2010ワールドカップサッカーは、やっぱり「菊と刀」なのだろうか。
サムライブルーは、菊と刀の論理で戦ったのか?

私は、それに否と答える。

菊と刀の世界で指摘された、日本人を動かす他律的な論理「恥」あるいは「恩」「義理」は、2010サムライブルーには、すでにない。
彼らが「頑張らないと恥ずかしいから」「恩があるから」「義理があるから」献身したのではない。
彼らは、自分たちのため、そしてチームメイトのために、自ら体を張ったのだ。
他律的な論理は、もはやなかった。彼らは、心底「そうしたいから」そうしただけだった。

私は思う。戦後、65年の歳月を閲して、ついに日本人は「菊と刀」の世界から脱したのではないだろうか。

評価はしない。これだけ声価の確立した書に書評はいまさら必要あるまい。

今から、いたずらに過去を懐かしみ、義理や恩の世界に返って大日本帝国憲法の世界にまでもどる必要はない。そう考えて居る人は、もう一度、本書をよく読んでみるといい。戦前日本の論理では、この書を出す論理にまったく歯がたたないと痛感すべきだ。その世界は65年前に終焉した。
しかし、これから世界一の高齢化社会で、今や太陽が没しつつあるこの国で、いまだに経済成長第一で「技術力があれば」と考えて居る人もうさんくさい。負けた反動によるガンバリズム、技術が有ればというプロジェクトXでは、やっぱり世界の上にいけないと私は思う。
香港の税率が16%、支那の税率は社会補償費を含めても20%で、利益の半分がなくなる日本が技術開発競争をして打ち勝ち、高齢化する老人の医療費や年金需要をまかなえ、などという理屈がまかり通ると宣伝すること自体が詐欺じゃないか。

ただ自分のため、あるいは自分のチームの仲間のために(顔の見えない社会とやらではなく)シンプルに頑張るというシステムのもとで、私は暮らして行きたいと思うのだ。