Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

デイトレ民主主義

選挙のたびに「有権者も考えなくてはいけない」という調子の論調が目に付きます。
ひどいのになると「ねじれ回避のために、政権与党へ投票しろ」みたいな話まで。
おいおい、それって自民党時代の万年野党万歳思想と変わらんではないの?とか、同じ事を自民党政権の時に言いましたか?みたいなツッコミは当然ですね。
民主主義である以上、有権者一人一人が、もっとも良いと思った候補者なり政党へ投票するのが当然です。

ただ、その判断サイクルは、最近、非常に短くなってきているといえます。いわば「民主主義のデイトレ化」です。

これは民主主義のお約束なのですが「投票について責任を問われない」というのがあります。
投票という権利があり、決まった政府に従う義務があるわけですが、投票行動そのものに対しては責任を問われません。
なぜかというに、「決まった政府に従う」は義務である以上に、国家権力が定めるところでありますから、これを拒否する方法がない。
仮に「投票しなかった人は、政府に対する権利を行使しなかったので、義務を負わないことにする」早い話が「納税しなくていい」ことになったら、いったい誰が投票しますか(笑)
つまり、民主主義における権利と義務は対等の関係にないので、棄権しても罰則はなく、仮に誰かが「結果的に間違った投票」をしても、責任は問われないのです。

たとえば、どこかの隣国のように、選挙をやったら投票率は常に100%で、そのうえ現職の偉い将軍だか主席だかの支持率も100%だとすると、そりゃうさんくさいでしょ(苦笑)
で、その中で、誰かが○産党に投票しなかったとします。そうすると、その人は、必ず責任を問われます。強制労働だか思想改造だか、まあ、そんな面白いところではありません。
これが「間違った投票に対して、責任を問われる」ということです。

仮に、この共○党に対する投票を、このように言い換えたらどうでしょう。「市場原理主義を導入し、小泉竹中改革を支持した者は」やっぱり強制労働だか思想改造でしょうか?(笑)
おわかりのように、結果論から「間違った投票」を指弾して、責任を追及したって、隣国の○産党に入れなかった投票行動に対するものと、まったく変わりない。これは、民主主義ではありません。
したがって、民主主義において、有権者の投票に関しては、投票したこと以上の責任は一切問われないのが基本原則なのです。
「だまされた、ふざけんな」という自由はもちろんありますが「○○党に投票したバカをたたき出せ」という行動は許されないのです。

そうしますと、これは何かと似ています。
そうです、株式投資ですね。株式投資では、株を購入した瞬間に、その価格変動リスクという自己責任がくっついてきます。これは、どの政府を支持したかによって政策が変わり、私たちの暮らしが変わるのと似ています。
そして、その行動は「株を買った」という行動の時点で完結しています。あとは、その会社のみなさんが頑張ってくれることを祈るだけです。
投票も、投票した時点で終了です。あとは、賢明なる政府が頑張ってくれるのを祈るだけです。

さて、株式投資では「デイトレ」という手法があります。株の売買しか投資家として行うことはないので、一つの行動が短期間で完結します。そこで、一日に何度も株を売買し、短期に「結果」を求めます。
それは、長期になると、それだけリスクがあるからです。先のことはわかりませんので、短いサイクルで動くのです。大きな利益はとれませんから、短いレンジで、少しでも値下がりしたらただちに損切りをします。

同じ事が政治の世界にも起こっていると、私は思います。
先行きが不透明ですから、先の長いことにみんながリスクを感じています。政治で有権者にできることは(自分が立候補することを除けば)投票することだけです。
ですから、短い投票行動の「結果」を求めるようになるのです。

さて、明敏な方はお気づきだと思います。株式投資では、中長期は「投資」ですが、短期は「投機」です。どちらも、利益を得るという「結果」を追うわけですし、手段は株の売買です。
にも関わらず、そのスタンスは大きく異なります。
政治も、おそらく「投資」ではなくて「投機」を日本人は求め始めたのだろうと思います。「結果」さえ出れば正義だ、という最近の風潮をみれば、おおいに納得です。

ところで、会社の経営資源として「時間」の重要さを、かつて述べました。
政治でも同じだろうと思うのですが、時間という資源を日本の政治は失ってきています。
国民側に立って言えば、それだけ追い込まれているわけですが、政策は「そんなに急には無理」というのでしょう。

「もう待てない」という国民に待ってもらわなければいけませんし、逆に「急には無理」という政策側には「やかましー、やりゃ出来るんだろが、こらあ」と言わなければいけません。
それがリーダーの役割なんですね。つらいところです。

ですから、国民に「もうちょっとガマンして」というのは、政治家たるリーダーのつとめだということなんです。
国民自身が「もう少し待ちましょう」というのでは、こりゃ本末転倒なんです。

私は、国民に待てといいながら、政策側の尻をたたいたという意味では、やはり小泉元首相は優れていたと思います。
政策の当否はあとでわかります。それは難しいことです。
しかし、その人が在任中の間に最低限できることは、国民に待ってもらえる努力をすることなんじゃないでしょうかね。

それが出来ない政権は、やっぱりダメだと思います。