Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

鳥の歌いまは絶え

「鳥の歌いまは絶え」ケイト・ウィルヘルム。サンリオSF文庫、絶版。

近未来が舞台である。
地球上の生物は、主に核汚染のために滅びようとしている。
人間は、徐々に生殖能力を失い、子どもができなくなる。
そこで「谷」と呼ばれる豊かな渓谷の一族が、財力を傾けた病院をつくる。表向きは病院なのだが、その実態はクローン研究所であった。
クローンは、家畜からスタートし、必然的に人間にその技術が応用されていく。
倫理的な議論がまき起こるはずだったが、実際には秘密裏にクローン人間は誕生しており、その事実を発表した時点での「生命への冒涜」という議論は目の前の赤ん坊達によってかきけされる。
彼らにはもう赤子を持つ母親がいなかったのである。

こうして生まれたクローン人間達だが、ある弱点を抱えていた。クローンを重ねると、そのクローン人間自身の生殖能力もどんどん低下することであった。
人口の維持が難しくなってくると、それはそのまま文明の崩壊を意味する。
クローン人間達は、自分たちの子孫を全てクローンによって得ることにした。
同じ遺伝子から生まれたクローン人間達には、自意識がなく、兄弟達と離れていてもつながっている感覚を共有している。
一人が全体のために尽くすという思想は、そういう世界ではごく当然のこととなり、それができない人間は異常者として排除される。
そのための宗教も誕生する。追悼式を行うことで、生きている人間であっても、社会的に存在しないことになり、追悼式が終われば他の兄弟は、一人の兄弟と感覚を共有できないという悲しみすら忘れることができるのである。
こうして、一種の理想郷に一見みえるような社会が出現したのである。

しかし、クローン技術を維持するためには膨大な労力が必要であった。
クローン人間達は、そのうち、それぞれの遺伝子の特性に応じて「技術者」や「炭坑夫」や「農民」を作り出す。
生まれながらにその才能と職業が決まっていることは、彼らの社会では幸福と考えられている。
しかし、突然変異で、「個性」をもった人間が生まれてしまうと事態は一変する。
「個性」のある人間にとっては、クローン社会は自由のない階級制の社会であり、奴隷制度である。事実、クローンを生むために、生殖能力のある女性は、その役目に専従する人生を送らされるのである。
「皆が役割に応じて平等で幸福」であり「劣った人間は存在しない」のだが「天才もいない」社会。
「個性」のある人間は、必然的に排除されることになる。
彼は、谷から出て、新天地を目指す。死に絶えたはずの生物は、豊かに生き残っていた。核汚染された地域には近寄らないことにすれば、生活はしていけるのである。
彼は、さらに代理母達を略奪(彼の言い方では解放)してくる。
こうして、新たな冒険者が、新天地の開拓者となったのである。。。

さすがにヒューゴー賞受賞作品で、おもしろさと綿密なSF的設定が見事である。
物語が、完全にヒューマニズムの呪縛から解放されているのもすごい。この物語は、決してハッピーエンドではなく、浪花節もない。
ただ、このような過程であれば、たしかにこうなるだろうという物語がきちんと書き込まれている。
作者が女性だから、というような斟酌はまったく不要であって、純粋に巧みで説得力のあるストーリーに引き込まれていく。
ケイト・ウィルヘルムだからジェンダーだとかニューウェーブだとか、そういう形式論で解釈しようと考える必要はない。
むしろ、それらは邪魔である。

評価は☆。さすがの出来映え。

しかし、このような作品も復刊されないというのは、いかに現在が出版不況であるか、ということだよねえ。
初版1万はおろか、5千部も売れないんだろうなあ。1冊千円という冒険的価格をつけても、たった500万円。
原価と流通マージンひいたら、、、こりゃ商売にならんわね。

ネットでブログを書いている自分が言うのもなんだが、インターネットも携帯もない時代、たしかに書店は情報の中心地であり得た。
みんなが、今よりもゆっくりと、しかし着実に、本を選んで読んでいたような気がする。
ネット時代であっても、売れている本は売れているという指摘はあるのだが、しかし、明らかに読むのに時間を要する作品は減った。
たまに冗談みたいに厚い本もあるが、なあに、読んでみるとスカスカの紙数稼ぎが目に付く程度のしろものである。

たまに古本を読んでいると、自分がひどく時代遅れになったと感じるのである。
致し方ないことであろうなあ。