Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

世界Aの報告書

「世界Aの報告書」ブライアン・W・オールディス

オールディスといえば「地球の長い午後」があまりにも有名である。
奇妙な生物達の織りなす世界を、まるで眼前にあるかのようにありありと描写してしまった。

本作は、そのオールディスの若書きの作品である。

この作品には、ストーリィとよべるほどのものがない。
あるにはあるんだが、およそ無意味である。この作品は「メタ小説」を意識しているからである。

普通の小説は、私たち読者がいて、本の中に世界があり、そこで登場人物達が会話したり冒険したりする。
その有様を、我々が「読む」ようになっている。もっと言えば、読んで意味を解釈している。

この作品では、本の中に世界があるのだが、それを世界Aと呼ぶ。その世界Aを記した報告書(あえて小説とはいわない)を読んでいる人物がある。
我々は、その人物とともに、報告書を読むことになる。
その報告書だが、たとえば「女はうっとりした表情で、口を動かし、手を動かしながら室内を歩いた」というような描写である。
それを読んでいる人物が「この女は歌っているのだ!」と解釈する。
普通の小説では、作者がいて、その「解釈」を小説に書いているわけだが、本作では解釈のない「報告書」があって、その報告書を読んでいる人物が解釈を行い、その解釈を我々読者が読む、というように階層が分かれているのである。
さらに、作品の後半になると、作中に報告書を読んでいる人物を観察している別の人物が現れるので、我々の視点はさらにその上になる。
そうして、最後に「小説を読んでいる我々」という視点を揺さぶってみせる、というような仕組みになっている。

言うまでもないが、評価は無☆である。
この小説は、いわゆる実験小説の範疇を出ないもので、たしかに有名作家の若書きに過ぎないな、としか思えないものだ。
才能の片鱗を感じさせる部分がないでもないが、日本でいえば高校生の文芸部の創作以上のレベルを持っていないとしか言えない。

そもそもメタ小説の意図とは何か?
それは、小説という世界に逃避する人物(つまり、読者のことだろう)に、現実を意識させることであろう。
かつてサルトルが言ったように「飢えた子どもの前で、文学は有効か」という問いかけに近い。
しかし、言うまでもなく、飢えた子どもに必要なのは食料を得る手段であって、文学ではない。
一方、本書を求めて読むような人々が、飢えた子どもであるわけはない。
「飢えた子どもの前で、文学は有効か?」という問いは、飢えたライオンの前で干し草は有効か、という問いかけに似ている。
干し草が役立つのはヤギの前であって、ライオンの前ではない。逆に、ヤギの前で生肉は有効ではない。
「腹いっぱいの子どもの前で、パンは有効か?」という問いかけと「飢えた子どもの前で、文学は有効か?」という問いかけは、等価である。
メタ小説は、そういう自意識過剰で見当外れの試みであると思う。

偉大な作家といえども、若年期にはつまらぬものを書いていたんだな、という意味で、貴重な作品である(苦笑)
いいじゃないか、年を経て熟成していったわけだから。

私なんぞ、何年経ってもちっとも熟成しない。
困ったものだと嘆息する毎日なんだから。