Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

アンティシペイション

「アンティシペイション」クリストファー・プリースト編。

プリースト編集によるSF短編集。
さすがプリーストくらいの大物になると、そうそうたるメンバーが寄稿するようだ。
イアン・ワトスンロバート・シェクリイ、ボブ・ショウ、ハリイ・ハリスン、T・M・ディッシュ、J・G・バラードブライアン・W・オールディス
まさにスター競演(古いなあ。。。)である。

それぞれの作品は、さすがに素晴らしい質である。うんうん、なるほど、、、と思って読んでしまうのだ。

冒頭のワトスンの作品を紹介してみよう。

ある日、突然「超低速航時機」が現れる。なぜわかったといえば、そのように看板が付いていた(笑)。
で、中の搭乗員は、ひどく汚い身なりで(それは仕方がないが)おまけに、精神に異常を来しているらしい。
この機械が「超低速」と呼ばれるのは、普通の時間の進み方と同じ速度でしか、航行できないからである。
つまり、1年過去に遡るには、1年の時間がかかるわけだ。30年遡るには30年がかり。
その間、狭い機械の中に居るわけだから、それは精神も可笑しくなるだろうし、身なりも汚くなる。

それから10数年が経過して、中の搭乗員はだんだんと正気を取り戻し、若返っていく。
人々は、期待を込めて、彼を見守るようになる。
いつかは、彼が低時機に登場した時間にたどり着くはずで、そのときに、彼は「決して戻れない旅」に志願したのではないか。
つまり、外部(我々の世界)では、この機械を発明した時点に近づくはずで、そのときに志願した人物がこの人物に相違ない。
だとすると、これはキリストに等しい自己犠牲の精神ではないか、というので、ついに彼を信仰する団体まで現れる。
その他の人々も、まさか信仰とまではいかないが、しかし、航時機にのる彼を尊敬する気持ちに変わりはないのである。
しかし、「出来るはず」と分かっているのに、なぜか航時機の開発はうまくいかない。
そのうち、彼は10代まで若返ってしまう。

そして、ある日、忽然と彼は消えるのである。
彼は航時機の秘密を公開する。
「航時機は、未来にいくときは、まず過去に遡らなければならない。遡ったぶん、未来にジャンプすることができる。しかし、その秘密を過去にいって暴露してしまうと、過去が改変されてしまい、予定した未来にいけなくなってしまう。だから、今まで何も言わないでいたのだ」
別に、搭乗員は自己犠牲でもなんでもなく、この機械の性質上、そのように振る舞わざるを得ず、人々はそれを信じていたのだった。

皮肉の効いた物語である。

どの短編もよく練られており、面白いと思う。評価は☆。

さて、尖閣ビデオの流出からしばらく経って、色々な話が出てきている。
もっとも話題なのは「誰が流出させたのか」というミステリー話だ。海保に捜査が入ることになった。
しかし、もともと「那覇地検レベルで判断して良い問題で、不起訴で問題ない」とした事件なのである。
国会で紛糾するべきなのは、その判断そのものの是非だろう。
自民党の石破氏は、「これを機密にすることで、いったいどんな国益があるのか?」と質問した。これが本質だと思うが、内閣からは返事がない。
「5年後には評価される判断だと思います」は、言うまでもないが回答ではない。

しかし、これだけあからさまな故意の衝突ビデオが流出しても、なお「全体像はわからないのだから、云々するべきでない」といった意見もある。
普通の交通事故で、このレベルのビデオが録画されていたら、おそらく議論の余地はないはずである。
にも関わらず「云々するべきでない」という意見が出てしまうのは、対支那で軋轢を起こさないことが善だという暗黙の前提があるからである。
あるいは、この事件の発端はどう考えても普天間移転に関する日米関係の齟齬がきっかけなのだが、それをことさら無視したりする。
人によっては、まったく反対で、普天間ではなくて、日本が米国とべったりであったから支那と軋轢を起こすんだという。
日米関係が緊密であり、尖閣問題が生起してから40年経つ間にも問題はなかったので、明らかに支那、あるいはロシヤからして「好機来る」と思われてしまったというのが一般的な解釈だと思うが、そう思わない人もいるわけである。
先にあげたイアン・ワトスンの短編のように、同じ光景を見ていても、ある人々は信仰化してしまったように、勝手にそれを見る人がアタマの中で「物語」をつくってしまうから、仮にビデオが出てきても、その物語にフィットしないとして却下されてしまうわけだ。
逆に、どんなに説得力のない噂や証拠といえない伝聞であっても、自分の物語にマッチする話であれば、人は手もなくこれを信じてしまう。

あるものを、あるがままに捉えることは、簡単にみえて、実は大変難しい。
特に、人にとってはそうである。
人は、事実よりも、自分が作った(と思っている)物語を信じるほうを好むのである。

やっかいなのは、隣国よりも、物語を信じてしまう人間の性のように私には思われる。
やはり、情報は公開して、広く人々の意見を集約し、一部の物語によらない対応をしたほうが良いと思うのである。