Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

人生で必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ

「人生で必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」R・フルガム。

たいへん有名なエッセイだけど、読んだことはなかった。
古本で安く購入。

著者はボートハウスに住む牧師である。
ボートハウス、というのは意味がある。アメリカは、固定資産税が高い。ところが、ボートハウスやトレーラーハウスは、税がかからない。
よって、日本で言う「長屋」のような、所得の低い人の住居、ということである。
世捨て人の住まい、といった雰囲気もあるようだ。

著者は、本書の冒頭で「クレド」を紹介する。クレドは、生活信条というほどの意味らしい。
そのクレドの一つ一つは、非常にシンプルなものである。
それが「幼稚園の砂場で学んだこと」だという話だ。人生を生きていくのに、そんなに難しい知恵はいらない、と著者は言いたいのである。

エッセイは、いくつかのエピソードが紹介される。
それぞれに、なるほど、少し心が温まる話ばかりである。その「少し」が、アメリカ人に受けるのだろうと思う。

私は、残念ながら、とうに「すれっからし」の域に到達しているらしく、深い感銘を受けなかった。
どうやら「ちょっといい話」には辟易しているらしいのである。

評価はなし。決して悪書だと言いたいわけではない。
どうも、わざわざ読む価値を見いだせなかった。よほど偏屈なのであろうなあ。

私の偏屈は、たとえば、以下のようである。
おりしも、原発が点検のためもあって停止中、電力不足で節電の夏が叫ばれている。
このままでは大規模停電だ、政治の責任で原発を再稼働させるべきだ、そんな話がある。
私も、たぶん、話のオチはそんな風になるのだろうなあ、と思っている。
どんな新エネルギーをもってきても、いきなり原発の代替は不可能である。

しかし、一方で、こうも思うのだ。
「ホンマにいっぺん、とめてみたらどうか」と。
「エアコンを動かすためには、原発を動かすほかありません」なのだが、大阪の橋本知事は言ったそうである。
「エアコンを止めれば、原発は止められる」と。たしかに、そういう理屈になる。
エアコンを止めれば、熱中症が出るだろう。犠牲も出るであろう。
医療はどうするという話もある。(もっとも、震災後100日を経過して、これだけ停電の危険が喧伝されてなおかつ備えのない病院というのを知ることは価値があるかもしれない。その病院は、私が思うに危険である)

思い出していただきたい。
大震災後に、こぞって皆が言った。「今こそ、ひとつになろう」「被災地と共に」と。
今、被災地にエアコンはない。炎暑の中で、あまつさえ蝿が大発生し、みな苦しんでおられる。
瓦礫の撤去も進んでいない。仮設住宅はおろか、いまだ炎暑の中で雑魚寝の世帯も数多いはずである。
それが、「暑いから、エアコンをつけろ。原発を動かせ」なのであるよ。
その口で「皆がひとつになろう」と言っていたのだ。ついこの前の話である。

原発を、自らの政治活動の宣伝に使うプロ市民なんて、私は大嫌いである。世の中に、利用してよいことと、そうでないことはある。
あまつさえ、総理大臣をや。未曾有の災害を、己の延命に利用する。国家権力は腐敗するものだが、かほどの腐敗はあるまい。
しかし、誰かが「被災地の人のことを思え。暑いくらい耐えよ」と暴言を吐いても、それはいいじゃないか。
原発推進派も、反対派も、やれ放射能だ、エネルギーだ、経済だという。
節電が大変だ、これはムリだ、いや東電の演出だろう、そんな話ばかりする。

私はへそ曲がりだから思うのだ。「いっそ、とめちゃえ。少しは我慢をしてみろ」と。
そうして、エネルギーのことを思うもよし、あるいは被災地に思いをはせるもよし。
どうして、みんな自分の理屈ばかりを言い立てて、アタマの中で考えた主張の話ばかりするのか。
たまには、肉体で感じることも必要ではないか、と思う。
当然ながら、私は今年いまだエアコンを使っていない。扇風機は有り難いものであるけどね(苦笑)
それすらダメなら、団扇を使うほかない。なければ我慢するしかないじゃないか。

生活保護の家庭がエアコンがないのは人権侵害だとかなんとか、そんな話があった。
みんな止まれば、みんな人権侵害なのだろうか。
原発で騒いでいるサヨクの方々は、停電でエアコンがとまれば、一千万都民の人権侵害だと騒ぐのかどうか、それも興味がある話であるよなあ(苦笑)。

その程度の「無茶」すらできない。そんな日本人に「ちょっといい話」なんて、ただの一時の娯楽以上の価値はない。
私が本書を推薦しないゆえんである。