Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

去勢


舞台は1970年代のイギリスであるが、現実の世界と異なって、宗教革命が起こらず、いまだに欧州大陸をカトリック教会が支配しているという設定になっている。
アメリカはニュー・イングランドと呼ばれていて、分離主義者(新教皇を自称したルターの支持者たち)の国ということになっている。
宗教革命が起こらなかったことで、ルネサンスもなく、産業革命も起こっていない。
いまだに、厳しいカトリック教会の支配のため、飛行機や内燃機関などの発明は異端の所業とされているような世界である。

主人公のヒューバートは、音楽的な才能に恵まれている。
修道院長は、彼を己の権力を誇示するための道具にしようと考える。この世界は、それは「神の恩寵をたたえるため」と正当化されるのである。
ヒューバートは、歌手と作曲のいずれの才能ももっていたが、大修道院長は「歌手は現在の才能、作曲はいまだ未完の才能」だとして、歌手の才能をとることを決断する。
つまり、美しい彼のボーイソプラノを維持するために、ヒューバートを去勢しようというのである。

これに対して、従順な彼の父親は賛成するが、母親は反対する。
母親は、一家の神父のライアルのもとに相談に行く。ライアルは、大修道院長にかねてから反感をもっていた。
母親と姦通したうえで、ライアル神父は去勢への同意書にサインを拒む。彼のサインがなくては、手術はできないのである。

一方、ヒューバートは彼のうわさを聞きつけた教皇に呼び出される。
教皇は、大修道院長から彼を取り上げ、自分の少年合唱団に所属させることをたくらむ。

ライアル神父は、教会勢力の手先である警察に脅され、屈しなかったことで、去勢された姿で惨殺される。
それを知った大修道院長は、神の怒りではないかと疑って、懺悔をする。

ヒューバートは、下層民や浮浪児などの助力で教皇のもとを脱出する。
かつて彼の歌を聴いたことがあるニュー・イングランドの大使に支援を求める。
ニュー・イングランドでは、去勢は犯罪者にのみ行われる刑罰であり、大使は措置に反対していた。
彼は、ヒューバートを大使館の小間使いをする小僧に扮装させて、飛行船で国外脱出させようとする。
首尾よく飛行船に乗ったヒューバートだが、そのとたん、睾丸捻転を起こし、緊急手術が必要になる。
生命の危険を救うため、大使はヒューバートを密航者としておろし、ヒューバートは状態が悪化して手術を受け、偶然に去勢された結果となる。
歌手として栄華をきわめるヒューバートの姿が最後に描かれるが、彼は、実はあのとき、自分を逃がそうと手助けしてくれた人たちのことだけは、なぜか忘れられないでいる。
とはいえ、彼の心中を語らう相手は、すでに彼の周囲に誰もいない。。。


大学時代に読んだSFだが、久しぶりに読み返した。
やっぱり面白かった。
評価は☆☆である。

宗教は、人の慰めになり、あるいは救いになる。
しかし、すべての権力と同様に、宗教も権力になれば、それは腐敗するのである。
ニュー・イングランドはそうではないが、しかしインディアンに対する蔑視があり、それが未来を暗示する。
主人公は、偶然に神の意志を受け入れたことで、世俗の成功を得るのであるが、そのかわりに、彼のいちばん奥深いところにある心の声は届かないものになる。
考えさせられる結末である。

つい最近も、いわゆる世間をマインドコントロール事件が騒がせた。
しかし、もっともおおきなマインドコントロールは、権力そのものなのである。
ニューイングランドの人が語ったように、たとえばインディアンに対する差別は「彼らの脳が、われわれよりも小さいという科学的な事実」によって裏付けられ、それは「だから、それは不当ではないのだ」という結論によって導かれる。
科学的事実は、政治の前に、たんに都合良く並べられ、人々を納得させる道具として使われるのである。
それに対する声は、子供の声である。「だって、そんなのはいやだ」という、聞き分けのない子供の声が、真実をつくのである。
つねにそうではなく、あるいは、それでは社会が成立しない、ということになるのだが、しかし、真実はいつでも小さい子供の声で語られるのだ。
それを、古来の日本では「赤き清きまことのこころ」といった。

赤き清きまことのこころを持つはずの人々よ、どうか子供の声で小さく真実を語ってほしい。
社会や権力におもねるなかれ。
八百万の神々は、そういう人々を見守っているだろうと思う。