Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

食う寝る座る 永平寺修行記

「食う寝る座る 永平寺修行記」野々村馨。

一読、傑作である。昨今流行りの物見遊山のライター風情になしえるところではない。ここにはホンモノがある。

永平寺と言えば、曹洞宗を開いた道元禅師の開山になる、日本の禅の大本山である。
そこの修行が厳しいというのは、つとに有名である。しかし、その「厳しさ」とは、具体的に何なのか?
本書は、生々しくその修行を活写している。

入山当初は、まさに地獄の日々というて良い。
こまごまとした寺内における作法を叩き込まれるのであるが、それは出来なければ、ただちに暴力を伴うものである。
この打擲はすさまじく、まさに「鉄の規律」を思わせる。
この通過儀礼を経て、ようやく入山を許され、僧としての修行が始まることになる。
その修行は、まさに「食う、寝る、座る」であるのだが、食事は徹底的な粗食である。米と味噌汁はお代りができるのだが、先輩僧は米を多食するな、と教える。
米を食いすぎると脚気になるからである。実際に、脚気を発病した同期の入山者が次々と病院に運び込まれる。
だから、常に空腹の状態にあり、さらに睡眠時間はあきれるほど短い。作務とよばれる作業労働も、精神的にも肉体的にも過酷である。
ぎりぎりまで追い詰められた僧たちは、食事の残飯を争って喧嘩するのだ。

そのような過酷な日々の中で、著者は、わずかな自由時間を、本堂で座ることに費やす。
足の痛みで気が遠くなりそうだった最初の座禅から、ようやく慣れてきたころである。人気のない本堂で、ほんのひと時を座ることに、大きな安らぎを見出すのである。
やがて1年。著者は、山を下りることを決意する。
もう一度、俗と向き合わねばならない、という気持ちがわいてきたからである。
未来に希望が持てず、女性とも向き合えず、なにか逃れるように入山した著者が、なにかを得かかって、再び人生と向き合ってみようと決意したところで物語は終わる。

評価は☆☆☆。
禅宗というものの本質をよく語った名著である。

おそらく、俗世間の人は、この本を読んでショックを受けるだろう。あるいは、「こんなことで悟りが開けるもんか」と反感を抱かれるかもしれない。
しかし、それは違う。
禅における根本的な定義は、禅性は誰にでもある、ということなのである。
極論すれば、釈尊であろうと、凡夫であろうと、人間にかわりはない。そこに、言葉にできない禅性があるのである。
よって、正しい修行を行って、その禅性を呼び覚まさないといけない。
しかし、人間は、生まれてこのかた、様々な環境によって経験を積んで、いろいろなものがくっついている(人によっては、それを経験とか学習と呼ぶ)。
それらに「こだわり」があっては、悟ることはできない。悟るのは頭ではなくて、心である。
だから、徹底的に、そういう「さかしら」をうちこわす。単に受け入れるしかない、そういうところまで追いつめる。「おのれを捨てる」のである。
そこから修行が始まる、というわけである。

そう理解はしていても、実際にこの修行を行うのは至難であろう。
修行者は、まさに命がけで修行と向き合う。
禅とは、そういうシステムなのである。
われわれが普段生活している論理とは、違う論理があることを認めよ、そういうことなのである。

生まれ変わる苦しみは、すべてに共通するものだろう。
「自分」を超えることの苦しさを描き切った、素晴らしい作品だ。
機会があれば、一読をおすすめしたい。