Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

ザビエルとその弟子

「ザビエルとその弟子」加賀乙彦

日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの晩年を描いた小説である。
ザビエルはマラッカにおり、当時、外国人の入国を禁じていた支那への布教を企図していた。
もちろん、殉教覚悟である。
ザビエルは、たいへん敬虔な宣教師であるので、殉教を恐れるようなことはない。

この支那行きに対して、二人の弟子は対照的な反応を見せる。
フェレイラは貴族出身であり、教会内での栄達を考えている。支那で客死などしたら、栄達など不可能である。
なんとか支那行きを回避したいと考え、ついにはザビエルにそう訴える。
ザビエルは悲しみ、彼を破門にする。

アントニオは支那人であり、支那の恐ろしさを知っている。
しかし、ザビエルに殉じようと彼は決める。
自分が行かなくても、ザビエルは一人でも行くだろう。そうすると、師は困るだろう。
それは、自分が死ぬよりも心配なことである、とアントニオは述べる。

しかし、現実はさらに冷たいものだった。
マラッカで手配した船は、船賃だけを受け取って、危険な航海から逃げてしまう。ザビエルは、来ない船を待つうちに客死。
その死骸は腐らず、奇跡とローマ法王にたたえられる。
しかし、最後まで行動をともにした異国人の弟子、アントニオは忘れらてしまうのだ。
そのアントニオの前に、裕福な商人となったフェレイラが現れる。
破門された彼は俗世での成功に専心するほかなく、そして、大成功を収めたのである。

評価は☆☆。
考えさせらるところの多い好作品であると思う。

熱病で死の床にあるザビエルのもとに、死霊となった日本人の弟子アンジロウが現れる。
彼は、ザビエルの布教態度を批判する。ザビエルは、神に忠実なあまりに、現地の土着宗教に対する理解も尊重も欠いていた。それがあれば、結果は違ったであろうに、とアンジロウは言う。
彼は、その一例として、彼の翻訳した祈祷書の問題をあげる。
アンジロウは「主」を「大日」と訳した。大日如来のことである。
ザビエルは大日の意味を問い、大日は造物主でもなく、万能でもない、そんなものは主ではないといってアンジロウを非難する。
アンジロウは答える。そもそも、日本の神は、どこにでも存在するものであって、すべてをつかさどる単一の神という概念自体がない。
もしも「主」を「神」と訳したら、大きな勘違いが起こるであろう。(我々は、すでにこの間違いを犯している)
大日は、確かに造物主ではないが、しかしすべての神を統べる中心の神ということになっている。
神の中の最上位である。日本人にとって理解できる「主」には、もっとも近いではないか。間違いだと面罵されたのは、むしろザビエル師の無理解ではないのか。。。

私は思うのだが、日本人がもっとも理解できないことに「宗教」の問題がある。
中東問題の本質は宗教問題である。日本人は「話し合いでなんでも解決」だと考えている。それが、そもそも自分たちの多神教文化の産物であることには、気づいていない。
世界の問題では、話し合いがつかないことが遥かに多いのが現実である。
外交でもそうだ。「武力を用いるわけにいかないから、結局話し合いしかない」と簡単に言う。その場合の「話し合い」は、あくまで日本人の考える話し合いである。
お隣の支那毛沢東は言った。いわく
「戦争とは、武力をもってする政治であり、政治とは、武力を用いない戦争である」と。
戦争とは、話し合いが通じぬ、という意味である。
それは例外でない。その証拠に、すでに戦後60有余年を経て、いまだ世界から戦争の絶えたことはないのである。
平和を念願する前に、なぜ戦争が起こるのか、それを自分の文化の殻によらず理解するのが先であろう。
「平和」という概念ですら、私たちが考える平和であり、この国の宗教的産物だと気付くことが必要ではないかと思うのだが。