Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

神無き月十番目の夜

「神無き月十番目の夜」飯嶋和一

この人の作品は、以前に「始祖鳥記」を読んで、ひどく感心した。
で、本書を読んでみたのだが、、、すごすぎます。
傑作中の傑作。
すごい作家である。なんでこんなすごい作家がイマイチ有名でないのかといえば、寡作だからに尽きる。
しかし、編集者は力不足ではないか。
こんなすごい作家に、もっと書かせておくれ(土下座して懇願)

舞台は常陸の国(今の茨城県)北限の小生瀬村。時代は徳川支配がはじまったばかりの江戸初期。
誰一人いない村に、隣村の藤兵衛が送り込まれてくる。
どうして、村に誰もいないのか?そこに、ついさっきまで、平和に暮らしていた痕跡がある。
そして、ついに山間に、三体の村人の死体を見つける。ほかの村人はどうしたのか?
戦の経験のある藤兵衛は、その村の匂いに記憶がある。それは、多くの躯が発する臭いなのだ。

小生瀬村は、常陸の佐竹氏が陸奥の伊達氏に備えるため、月居衆と呼ぶ土豪を置いたところである。
騎馬で名をはせた月居衆は、非常時に軍役に応じることを条件に、年貢も軽く、ほぼ自営の生活を送ってきた。
太閤検地の折も、ほとんど指し出し(自ら石高を申告する。つまり過少申告してもばれない)で済んだ。
おかげで、村は豊かであった。
そこへ、ついに天下平定した徳川氏の検地が入る。
肝煎りの藤九郎は、伊達との初陣で兜首3つをいきなり得て村人の尊敬を集める豪勇であったが、沈着な性格で、ただちに今回の検地はただならぬものであることを見て取る。
肝煎り(庄屋)に対しては優遇措置が取られるが、それは村人に年貢を間違いなく完納させるための監視料である。
今まで、肝煎りは村の庇護者であり代表者であったが、以後は、徳川幕府という支配者の手先となり、村人と対立することになるのだ。
この役が「恨まれ役」であることを悟った藤九郎だが、その苦難を引き受け、村人に検地への協力を指示する。
しかし、長年、独立の気風の強い小生瀬村の村人は、そんな藤九郎に不満を持つ。
しかも、村の大事なお盆の祭りの最中に検地をおこない、青田に検地役人は土足で入り踏み散らす。
隠田を探すと称して、村の共有地である御田を探そうとする。
御田は、村の森の奥深くにある神田である。
藤九郎は、この御田を何食わぬ顔で隠すのだが、そこを探索に入った検地役人は、検地に反感を持つ村人によって方向を見失い、落命する。
このとき、藤九郎を裏切ろうとした若者も同時に村人によって殺される。
藤九郎は、ことの次第を知って愕然とする。
幕府が、わざわざこの時期に検地を実施するのは、独立の気風の強い小生瀬村に対する支配への踏み絵であると彼は正確に認識していた。
検地による大増税で、村人は生きていくのがやっとの貧窮生活に落ちるであろうが、それでも一村皆殺しよりはマシである。
彼は、検地奉行に出頭し、自害することで、村を守ろうとする。
これを止めようとした若者との間で事故になり、藤九郎は落馬して死ぬ。
ついに、ここで独立派が勝り、小生瀬村は蹶起する。
そして、幕府による一村なで斬りがはじまったのだ。。。
まさに、神無月の十日の夜。その日は、村の祭りであった。。。

タイトルは、事件の夜の日付とともに、まさに「神も仏もない」救いのない事件を象徴する。
この事実は、徳川幕府によって深く葬られてきた。
評価は、言うことなしの☆☆☆である。
本書こそが、時代小説というジャンルが到達した一つの深奥である、と私は思う。

藤九郎は作中で独白する。
「いつだってそうだ。いつだって弱い者ばかりが最も悲惨を味わう。戦絵巻など、文字どおり勝った者の作り上げた絵空事ばかりだ。よい戦など、この世にはない。戦というものを知った時にはもう何もかも遅いのだ」
この「もう遅い」の意味が分かるであろうか?

村の未来には、ただただ人の幸福もない、悲惨で貧しい未来が待っている。それが「支配される」ことの意味である。
しかし、だから戦うということは、何を意味するのか?それがわかった時には、すでに遅い。
村の「平和」を守ろうとするならば、藤九郎のように、唯々諾々と人間としての幸福のない、悲惨な未来を受け入れねばならない。
それを拒否すれば、それはタダではすまない。支配する側は、決して例外を認めない。認めれば、そこから支配が崩れる。
独立自尊を主張するならば、それはそのまま敗亡を意味する。

恰好のよいことを言うのは簡単だ。しかし、言った後に起こる事態を、引き受ける覚悟があるのか?
それは別だとか、支配者が譲歩するとかはない。必ず、弱いものが滅ぼされるのである。
恰好の良いことを言うのであれば、滅びる覚悟はあるのだろうか?それほど、独立自尊が大事だと、なぜ言えるのか?

この問いは、そのまま現代の「平和」や「安全保障」や「領土」や「基地」の問題につながる。
この問題に、神はない。
私は、一切の恰好のよい話を信じないのだ。それは、私が、自分のことを弱いと知っているからである。