Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

美保関のかなたへ

「美保関のかなたへ」五十嵐遭。副題は「日本海軍特秘遭難事件」。

美保関事件の顛末を、遭難した駆逐艦「蕨」の五十嵐船長のご子息が丁寧にたどって書いた本である。

美保関事件とは、昭和2年8月、夜襲演習中に軽巡「神通」と駆逐艦「蕨」が衝突、「蕨」はまたたくまに沈没してしまった事件である。
さらに、この事故艦を避けようとした軽巡「那珂」が駆逐艦「葦」と衝突。「葦」は大破し、この二つの海難事件によって、実に120名の死者を出した。
「海の八甲田」とも呼ばれる。

事件の背景には、連合艦隊長官加藤寛治の無理な演習推進の姿勢があった。
加藤は、いわゆる「艦隊派」として有名であるが、ワシントン軍縮条約の結果、対英米6割に主力艦の保有トン数を制限されてしまう。
もちろん、英米と建艦競争をやれば国が破綻してしまうわけで、これは政府としては合理的な判断であった。
しかし、海軍の艦隊派は収まらない。
そこで、加藤は「訓練に制限なし」と唱え始めた。
数量では条約によって制限を受けるけれども、訓練は無制限である。よって、敵の2倍、3倍の訓練を積んで、数の劣勢を克服しようということである。
かくて、海軍はかつてないほどの猛訓練にいそしむことになった。
その結果として、この美保関事件が起こるわけである。

錬度の異なる艦を「戦場で、常に連度の整った部隊だけで作戦できるわけでもあるまい」として、直前に臨時編成。
夜襲訓練であるから、各艦は全速力に近い速度で、照明をいっさいつけないで行動する。
敵味方に分かれて演習し、敵を発見したら、玉のかわりに探照灯を照射する。
その照射時間で、発射弾数と被害を見積もる、というやり方であった。

「神通」は敵役の軽巡に発見され、探照灯の照射を受ける。
被害を受けた想定であるから、そのまま「神通」は海域から離脱しなければならない。
その神通は、離脱しようと舵をきった。探照灯の照射を受けたから、皆、目がくらんで何も見えない。それでも参謀が「その方向だと、敵軽巡の後ろに駆逐艦がいるかもしれませんよ」と注意した。
ところが、艦長水城は、この注進をききもらした。
砲術科出身の水城は、実は耳が遠かった。そして、聞こえなくても「ああ」と返事をするクセがあった。
そのまま「神通」は、後続の駆逐艦「蕨」に衝突。「蕨」は、あっという間に沈没してしまった。
さらに、これを避けようとした後続艦で玉突き衝突が起こり、軽巡「那珂」が駆逐艦「葦」に激突。両艦が大破した。

この事件は、委員会が作られて、横須賀鎮守府が意見書を出した。
彼らも同じ海軍である。仲間を罪に追いやるのは心苦しく、これは事故だと具申した。艦長水城の失策は明らかだが、しかし、演習中の判断として致命的といえない、としたのである。
ただし、この具申を受けた検察はそうでなかった。
厳しく軍法会議で水城を追求する構えを見せた。
そして、いよいよ判決の前日、水城は自決する。
かくて、水城は一転、犯罪者から潔い武人となり、新聞各社はがらりと筆致をかえて水城を称賛した。

評価は☆☆。
実に興味深い。

まず、事件の遠因としての無理な訓練。その背景にある軍縮条約の影響。
そして、そもそも耳が遠いという致命的なハンデがある人物を、年功で艦長に昇進させた軍令部の不明。
事後の、海軍同士のかばい合いは、ついに事件の真相を闇に葬ることにいたる。
大きな事件が起こったあとの処置を、考えさせることばかりである。

このような「お互いが、お互いの身を思いやるがゆえに、事件の真相は不明になる」は、いまだに日本でも続いているように思われる。
福島第一原発は言うに及ばず、あの地震で落下した橋梁や防水壁など、多数の例がある。
単に「想定外」ではすまないであろう。
なぜならば、災害対策は基本的に「正常系」ではない。システム工学の常識である。
ゆえに、エラー対策は、常に「想定外の障害が起こった場合」を想定するものである。
想定できないところを想定するのが業務である。
「想定外でした」で済むのは素人であって、プロはそれでは済まされない。
「で、どうするんだ!」となる。当たり前である。

事故が起きた時に、プロはどこまでプロでいられるか?
そこで「想定外でした」というくらいなら、プロ失格である。
誇りをもって、頑張りぬかなければいけない。

そんなプロが、どうも昨今少ないように思うのである。
カネをもらう仕事は、そんなに甘いものではないでしょうに、ねえ。