Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

魔将軍

「魔将軍」岡田秀文。

足利義教の生涯を描いた作品である。
実は、私はこの足利時代の最盛期を築いた将軍をしらなかった。
足利と言えば、まずは義満だという認識があったのである。

足利義満の三男として生まれた義教は、出家させられ、天台座主となる。
ところが、そこへ兄の義持が死亡。
その義持が、なんと後継者を指名せず、「神意に聞け」とのみ言い残す。
そこで、前代未聞の「くじ引き」による将軍選びが行われ、義持の弟、義教が還俗して将軍を継ぐことになった。

ところが、この人は、たぶん若いうちから仏僧になったためであろうが、とにかく「原理主義者」であった。
まずは、将軍親政を開始し、訴訟など、自分で聞いて片づけてしまう。
従来の侍所による訴訟は、はっきり言えば、コネと賄賂で決着する世界である。
それを、将軍みずから「理非に基づいて」やりだしたのだから、当時としては革命的な騒ぎであった。
さらに、義満ですらできなかった九州平定を、大内氏に命じて実現してしまう。
自らの出身である延暦寺が、僧兵を繰り出して強訴におよぶと、これを容赦なく武力鎮圧。
側近が「延暦寺が古来からの王法鎮護の本山」といさめると「わしを誰だとおもっておる?」
本人が天台座主であったので、延暦寺の腐敗ぶりをつぶさに見ている、容赦はせぬと言い捨てる。
そして、ついには永楽の乱を起こし、鎌倉公方足利持氏を誅殺。
足利政権を確立する。
そのさなか、もっとも頼りにしていた赤松満佑に裏切りを受け、暗殺されてしまう。


あまりにも苛烈で、まさに革命時にふさわしい義教の生涯に驚くほかない。
評価は☆☆である。

この人物こそ、後年の織田信長のモデルではないか、という指摘は、大いにうなずけるところである。
彼らが目指した政治体制は、封建制を一歩抜けて、絶対王政への志向であったように思える。

足利義満は、天皇位に自分の息子をつけようとしたので、史上最大の簒奪者といわれることもある。
足利義教織田信長も、皇位継承権問題に介入したが、しかし、簒奪をしようとはしなかった。
それで欧州流の絶対王政とは違うと思われているのだが、彼らの狙いは、おそらく、天皇ローマ法王と同じ地位に置くことを狙っていたのではなかろうか?
合理主義と独裁を備えたことを考えると、日本史上に珍しい絶対王政の指導者だったと思うのである。

足利時代というと、脆弱な政治基盤で絶えず不安定な政権だったという印象が強い。
しかし、例外もいたわけである。
残念ながら一代で終わってしまい、次代に影響を残せず、たんなる「悪御所」という名前だけを残すことになってしまった。
義教本人は、どう思っているかわからない。