「猿丸幻視行」井沢元彦。
著者は「逆説の日本史」でその博識ぶりを披露しているが、本書が江戸川乱歩賞受賞作である。
この書がデビュー作だというんだから、驚くほかない。
つまり、それだけの名作であり、日本小説史上に残る傑作歴史ミステリである。
この書がデビュー作だというんだから、驚くほかない。
つまり、それだけの名作であり、日本小説史上に残る傑作歴史ミステリである。
猿丸といえば、百人一首の
「おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき」
で有名なのだが、どういうわけか、猿丸の歌はこれしかない。
猿丸集という歌集はあるものの、本当に猿丸の歌といえる歌はなく、いずれも詠み人知らずの歌を集めたものとされている。
そういう意味で、猿丸はなぞの人物なのである。
「おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき」
で有名なのだが、どういうわけか、猿丸の歌はこれしかない。
猿丸集という歌集はあるものの、本当に猿丸の歌といえる歌はなく、いずれも詠み人知らずの歌を集めたものとされている。
そういう意味で、猿丸はなぞの人物なのである。
この歌の沓をとると「とかなくてしす」となる。「咎なくて死す」罪無くて死んだ。
この暗号は、人麻呂が残したものだ、という話である。
この暗号は、人麻呂が残したものだ、という話である。
そして、藤原氏が隠ぺいした歌人、柿本人麻呂は同時代の柿本猴(さる)であり、高官であった。
その死後に、柿本猴の鎮魂のため、猿を「人」と高めたとする。菅原道真を「天神様」にしたように、恨みを残した人は祀って神にせねば祟るからである。
つまり、もともと柿本人麻呂という人が罪を得て猿という名前にされた(水底の歌説)ではなくて、逆に生前のサルという名前を死後に神に高めた(人麻呂)とするのである。
この主張は、実に説得力がある。
その死後に、柿本猴の鎮魂のため、猿を「人」と高めたとする。菅原道真を「天神様」にしたように、恨みを残した人は祀って神にせねば祟るからである。
つまり、もともと柿本人麻呂という人が罪を得て猿という名前にされた(水底の歌説)ではなくて、逆に生前のサルという名前を死後に神に高めた(人麻呂)とするのである。
この主張は、実に説得力がある。
最後に、柿本の村(猿丸の子孫)の祭りで殺人事件が起こり、折口はその謎を解くのであるが、この辺のトリックはシンプルである。
そして、ついに財宝の正体が明かされ、財宝が埋められた理由も明らかにされる。
そして、ついに財宝の正体が明かされ、財宝が埋められた理由も明らかにされる。
評価は☆☆☆。
日本の歴史ミステリーの金字塔。まちがいない。
日本の歴史ミステリーの金字塔。まちがいない。
ところで、話は変わって靖国神社である。
国家神道に基づく神社だから、この神社は正当な神社でないという主張がある。
しかし、私は違うと思うのである。
国家神道が江戸期の平田神道の流れを汲む新興宗教じみたものであることは議論の余地がない。
しかし、そもそも神社の機能である「祟りを抑えるためには、祀らねばならぬ」という論理からすれば、靖国ほどぴったりしているところはなかろうと思う。
その意味で、たとえば平将門を祀った神田明神とか、菅原道真を祀った湯島天神とかと、大きな違いはない。
祀らねば祟るのである。なぜ祟るかといえば、生前に無念だったからである。
戦後の評価で正しいとか、正しくないとか、そういうこととは無関係なのである。
表向きは「顕彰」しているようだが、実は違う。「鎮めて」いるのである。
いわば、顕教と密教の関係があるのである。
靖国批判をする人で、そこまで神道の教義に踏み込んでいる人はないように思う。
国家神道に基づく神社だから、この神社は正当な神社でないという主張がある。
しかし、私は違うと思うのである。
国家神道が江戸期の平田神道の流れを汲む新興宗教じみたものであることは議論の余地がない。
しかし、そもそも神社の機能である「祟りを抑えるためには、祀らねばならぬ」という論理からすれば、靖国ほどぴったりしているところはなかろうと思う。
その意味で、たとえば平将門を祀った神田明神とか、菅原道真を祀った湯島天神とかと、大きな違いはない。
祀らねば祟るのである。なぜ祟るかといえば、生前に無念だったからである。
戦後の評価で正しいとか、正しくないとか、そういうこととは無関係なのである。
表向きは「顕彰」しているようだが、実は違う。「鎮めて」いるのである。
いわば、顕教と密教の関係があるのである。
靖国批判をする人で、そこまで神道の教義に踏み込んでいる人はないように思う。