Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

迷える者の禅修行

「迷える者の禅修行」ネルケ無法。副題は「ドイツ人住職が見た日本仏教」。

著者はドイツ人である。7歳で母親が病死という不幸に遭い、生きることの意味を求めて煩悶するようになる。
周囲の大人に聞いても「大人になればわかる」教会の司祭に「イエスさまはどこにいる」と聞いても「復活されて天におらる」というだけ。
著者は、納得できなかった。
やがて大学に行き、ふとしたはずみで禅メディテーションサークルに加入。そこではじめて「禅」を体験する。
初めてアタマを捨てて、自分の身体を発見する。
この境地を深めたい、と考えて、日本にわたって仏教を学びたいと、真剣に考えるようになる。

やがて、留学生として来日。
曹洞宗安泰寺で得度し、ネルケ無法となる。
厳しい修行の日々と、周囲の学僧を見ながらわかったことは、日本では住職は墓場の管理人兼葬祭サービス業者である、ということだった。
日本人は、仏教を求めていなかったのである。
著者は悩み、師に教えを乞い、その勧めで「他宗も経験してみよ」とのこと京都の臨済宗の寺に行く。
そこに待っていたのは、理不尽な虐待と厳しい修行の日々であった。
文字通り必死に修行を積み重ねる著者は、やがて痛めた足首のために座禅することすらままならなくなり、下山。
しかし、そこで一人で座る境地を体得し、大阪城公園で庵ならぬ段ボールハウスを張り、ホームレス僧侶となる。
ホームレスに「すいません、ここ、いいですか」と聞き、段ボールを敷いて「一緒に座禅しませんか」と出勤の人々に張り紙で語りかけ、早朝に座禅をした。
はじめは誰も来なかった。
ところが、そのうち、物珍しさからか、ポツリ、ポツリと人が集まりはじめる。
一方、近所の無料パソコンコーナーからブログをアップしはじめ、これが故郷のドイツなどで評判になる。
著者の段ボールハウスは、いつしかカラートタン張りの小屋になっていったようである。
その中に、奇妙な若い女性が混じっており、、、彼女は、著者の奥さんになった。
(しかし「一緒に座禅しませんか」というナンパは、まさに空前絶後であろうかと思う)

順調にいき始めた著者の生活であるが、一変する。
修行をした安泰寺が大雪害に見舞われ、もとの住職が負傷。
廃寺の危機にあって、著者に住職の要請が来る。
檀家もない、カネもない安泰寺の住職を、著者は引き受けることになる。
厳しい道のりであるようだが、著者の本来の禅道に立ち返った寺経営は、なんとかうまくいってきてるらしい。

評価は☆☆。
まことに面白い。

日本人でも、悟りとは何か、などと、考えてはいない。
それでも、妙に諦観の入った意見を言うと「何を悟り澄ましたみたいな」という小言は出る。
仏教は、日本人の文化の中に深く入っているはずのものだが、我々はそれを忘れ始めているようだ。

著者は、仏教が生きる人間のためのものであること、悟りとは知識や哲学でなく、生きることそのものである、と説く。
読んでいて、私は、おおそうだ、と思う。
しかし、一方で、なかなかこうはできまい、と思う。捨てたくないものが多いからである。
それをまさに執着というのであろうなあ。

アタマで理解する人にとっては、仏教は仏陀の哲学である。
しかし、仏教という「教え」の本質は、そこにはない。
今、生きていること自体が教えであるべきだ、考えた理屈を言えとは言っておらん、と。

私はまだまだ遠い。いつか、そこに近づけることがあるのかなあ。