Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

比較論-臓器くじ

東京都知事選において、細川さん小泉さんというロートル軍団(笑)が「脱原発」を持ち出しています。
この問題は、正直なところ国政レベルだと思いますが、国民の間でも意見が割れるところだと思います。

この問題で私たちが当惑するのは、いわゆる「専門家」と呼ばれる人のいい加減さ、です。
正直にいえば、我々一般市民の誰ひとり、原子力の専門家ではありません。
では、専門家ならば、一刀両断に「正否」を回答してくれるか?
残念ながらそうではなく、単に「推進派」の学者は「大丈夫」といい、「否定派」の学者は「ダメ」というのです。
これは、原子力が純粋な物理科学の問題ではなく、已然として政治学の分野(あるいは神学)に属していることを意味します。もちろん、本当に難しいデータは出てこないですしね。

で、この状況を見ながら、私が思いついた比較論は、臓器くじです。

一種の思考実験で、臓器くじ、という制度があるものとします。
くじ引きを行い、当たった人はドナーになり、全身の臓器を提供します。当然、ドナーは死にます。
そして、そのおかげで、たくさんの人が移植手術(たいへん高度で、まず失敗ないものとします)で助かることになるわけです。
そうすると、この「臓器くじ」はアリか、ナシか。

アリ、という意見を述べると。
そもそも、各人にとって「あたり」は、まずめったに(天文学的に)当たる確率がありません。
そして、この制度によって、多くの人が助かります。功利的に計算すれば、当然、利益が多い。
我々は、現在だって、たとえば自動車を使えば、必ず年間に数千人が死ぬことを受け入れており、それでも自動車を廃止しようという人はいない。その不利益を受忍しても、利益をとっています。
ならば、なぜ、臓器くじだけはあってはならんのか?
それは利益計算に基づかない「非科学的な」態度である、ということになります。

ね。「原発賛成派」のロジックと共通しませんか。

一方、この「臓器くじ」反対派は、どういうでしょうか?
そもそも、人間の臓器をその人の意志に背いて提供することはあってはならない(人権。神学)
人間の生死を、人間が左右することは「神の意志」に反する(信仰)
殺人と同じで、事故死や自然死とは違う死を社会的に受け入れることは社会的なデメリット(死刑は?)
などなど。

これって、つまるところ「信仰」の問題、ではないでしょうかね。
あるいは「確率的な死を社会権力によって強制する=もっと悪い事態につながる(軍靴の音がーって奴。笑)とかね。なんと古めかしい!

私は、正直なところを述べれば、こうです。
つまり
「この制度によって、もしも私が救われる側ならば、それは賛成」であり
「私が臓器を取られることになったら反対」です(爆)。

つまり、社会の利益はどうあろうと、私の死は「私のもの」でしかない。私が死ぬとき、社会が利益があろうがなかろうが、私にとっての死に毫も変わりはありません。しんじまったら、それまでです。
そして、他人からすると、それは「誰かの死」です。
命をとられて「誰か」にされてはたまらんから(とられる時は本人だから)そうなれば反対する。

それを原発に敷衍すると。
私が原発によって、利益を得るなら賛成です。たとえば、東電から仕事を受注などすれば、たいへんよろしい(笑)。
しかし、私が被爆して、がんになるのは困ります。事故も起こってもらっては困るが、もしも起こるならば、私の近所はやめてほしい(笑)。
原子力発電所は、なるべく私から遠くにつくり、電気だけを送ってもらいたい。それも安くして(笑)
そして、廃棄物は、私が被爆しないところに、うまく処分してくれ。
私のところだけはダメだ、ということになります。(誰もがそう思うかもしれない)

以上のように、この問題を「自分のこと」と考えて、自分の利益にそって忠実に(合理的に)考えれば、「原発推進」だけど「厄介は、私だけには持ってくるな」となります。
これは、あえて言えば、今までの東京都の態度ともいえます。
東京都は、決して原発を「他人事」としてきた、のではない。
むしろ「自分のこと」として考えたら、そのような結論になったのではないでしょうか。

つまり、今の「脱原発」議論は、神学的というか信仰的であって、社会的な功利理論と議論がかみ合わないようにみえる。
しかし、別に(私を含めて)東京都民が、社会的に功利理論で考えて、原発を推進してきたのではない。
原発を「自分の問題」として考えた結果、地方に原発をおき、自分たちは電力だけを受け取る、という自分にとって都合の良い(利益が最大だと思われる)選択をしてきた、ということです。
これって、ある意味で、推進派以上に「合理的」ではないかしらん(苦笑)

ただし、この構造に気が付いて、それはいかん、そんなエゴはいかんので「脱原発」だ、というほどの潔癖さはないでしょう。
今回の選挙で、原発は東京都の問題でなく、国政の問題だという批判があります。
しかし、結果として、すべての知事選挙で原発が争点化したら、これは国政と同じです。他人事でなく、自分の問題として考えた結果の集積が、国政に反映するに過ぎないという考え方もあるのです。
そうするのは簡単でして、すべての県知事選で、その地に「最終処分場を造るかどうか」を問えばいい。
だって、今、どこにもありませんから。
どこかで「推進派」の知事が当選したら、そのときこそ、我が国の大問題が解決するわけで喜ばしい。ほんとにはできないでしょうけどね(苦笑)

原発推進派は、そういう意味では、理論的には首尾一貫しています。
ただし、理論的に首尾一貫しているという自己矛盾のなさ、と、単なるエゴの境界は、上記のように非常にあいまいです。本人にしかわからないし、本人でもわからないかもしれない。
そういう意味で、原発推進派の理論は傾聴に値しますが、それを唱えている人物自体は、とてもあやしいわけです(苦笑)

まあ、今のところ、そんなところかな、と考えています。