Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

マルガリータ

マルガリータ」村木嵐。

天正遣欧使節をご存じだろうか。
この小説は、その少年使節の帰国後を描く。なかでも、4人のうち唯一棄教した千々石ミゲルに焦点を当てている。

小説の冒頭、もともとミゲルの妻だったお珠という女性を、代官が尋問するところから話は始まる。
ミゲルが、天草四郎の乱の首領、天草四郎の父親ではないか、という噂があり、その真実を探るためである。
年齢的に考えると、お珠が45歳のときの子、ということになる。
代官たちは失笑する。今でも45歳の出産は難事であるが、当時の45歳は、すでに老境である。失笑も無理はない。
お珠は言う。「しかし、男ならば、父親になれぬということはありますまい」
では、ミゲルが浮気をした、というのだろうか?
お珠は、そんな話は聞いたこともないが、と言って語り始める。それは、ミゲルと、大村純忠の娘、伊奈姫との交流の話でもあった。
伊奈姫は「まりいた様」と呼ばれていたが、その姿はお珠と対照的である。
伊奈姫は、ミゲルの考えをよくわかるマリアであり、無学で働くしかないお珠はマルタであった。この小説は、キリストの逸話「ベタニアのマリア」(マグダラのマリアとは違う」と通奏低音にしている。

ローマから戻った遣欧使節団を待っていたのは、キリスト教を禁教にした祖国の姿だった。
とはいえ、この時期の禁教は、さほど厳しくない。
4人は秀吉の招きで聚楽第まで出かける。ほかの3人は「聚楽第など、ローマに及びもつかぬ」と言っていたが、ミゲルだけは秀吉の豪壮さのほうが、しっくりくるのであった。
慧眼な秀吉は、それをたちまち見破り、お前だけでも棄教してくれぬか?とささやきかける。
誰か一人でも、天主より秀吉を選んだという話になれば、それだけで面目が立つのだ、と。
しかし、ミゲルはその話を断り、大村へ帰る。
その学林で4人は勉学に励むが、ミゲルだけは原因不明の足の痺れを訴える。
健康不良ということで、再度の留学(マカオ)から、ミゲルは漏れてしまう。
3人は留学し、やがて帰ってくる。

その間に、大村家の事情も一変する。
当主の純忠がなくなり、子供の喜前があとを継いだ。世は徳川家になる。
徳川は、さらに厳しい禁教を打ち出した。大村家は、徳川に縁故がなく、熊本の加藤清正が頼りである。
その清正は、天主教嫌いとして通っていた。
そこで、家臣に上っていたミゲルが棄教し、清正の歓心を買い、さらに知行の返上を行うという策が立てられた。
大村家は、戦国大名とはいえ、土豪の名代として立っているだけで、家臣たちの禄は先祖代々の土地なのである。
よって、領主といえども、家臣の録より取り立てて直轄地が多いわけでなく、家臣に遠慮しなければならない。
それでは大名家としてはやっていけないので、まず、ミゲルが率先して棄教し、喜前公に禄を差し出す。
喜んだ喜前公は、その禄をそのままミゲルに下す、という猿芝居である。
しかし、これで形式上は、家臣の禄は当主が与えたもの、になるわけである。
これに反対するものは、圧倒的にキリシタンの家が多い。禁教令ごと、つぶしてしまえる。
幕府の意向に沿いながらの藩政改革、ということであった。

棄教したミゲルは、人々の冷たい視線を浴び、数々の迫害を受ける。
他の使節だった3人は、ミゲルの気持ちを分かっていた。

やがて、伊藤マンショが早世。
原マルチノは、熱心な信者とともに、マカオへ逃れる。
しかし、誰もが海外に逃亡できるわけではない。
残った信者のため、中浦ジュリアンが司祭としてやはり残った。
幕府の追っ手を逃れながら、信者たちに「殉教など、してはならぬ」と説く毎日である。
そして終幕。
ジュリアンは捕まり、人定のためにミゲルが呼ばれる。ミゲルは「この者はジュリアンではない」とかばおうとする。
しかし、嘘は見破られる。絶望したミゲルは「実は、自分はキリスト教徒である。棄教などしていない。ジュリアンとともに、処刑してほしい。」
と願う。
お珠は、夫を救わんと「この人は、棄教者だ、ずっと迫害されつづけてきた」と叫ぶ。
代官は「もっとも高名な転びキリシタンを、処刑などせぬ」と冷笑した。
ジュリアンは処刑されるが、その前に、すでに食を絶ってミゲルは死んでいた。
そのミゲルの最後のことばは「マルガリータ」であった。
それが、妻のお珠のことだったのか。あるいは、常に自分を理解し支えてくれた伊奈姫、まりいた様のことであったか。。。


評価は☆☆。
素晴らしい作品である。

千々石ミゲルは、天正遣欧使節のうちで、唯一、棄教したというのは史実であるそうだ。
しかし、ほとんど資料らしい資料は残されていない。
作家の想像力の試される題材と思うが、この小説は見事である。
特に、ミゲルの棄教の動機として、欧州人が、日本人の殉教を期待していたことに嫌悪を抱いていたことは、充分にあり得るであろう。

アメリカで人種差別撤廃運動がおこったときの小説「アンクル・トムの小屋」がある。
涙なくしては読めない名作である。
しかし、「黒人だって人間だ」という主張の背後には「彼らも殉教できるではないか。それが証拠だ」という考えがあるのである。
差別された非白人が、自分たちも人間だということを証明するためには、彼らの信じる天主のために死ねることが証拠になる。
かくて、心優しい白人の紳士、淑女ほど、非白人の「殉教」を期待するようになるのだ。
なんということだろうか。

死んで、はじめて「人間」になる。悲しいことである。
靖国は、死んで英霊とされた。こちらは、神様である。
比較するのが間違っているという前提を承知して言うが、死んで初めて人間では、生きているうちは何なのであろうか。
安易な進歩思想のうらには、おそるべき冷血が流れているということであろうと思う。