Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

向日葵の咲かない夏

「向日葵の咲かない夏」道尾秀介

私は基本的に海外ミステリが好みで、日本の作品をあまり読んでいない。
たまには趣向を変えて、と思って読んでみた。

事件は、小学生のミチオの友人が自殺してしまったことに始まる。
学校の帰りに、友人に届け物をしたミチオは、その衝撃的な光景を見てしまうのだが、学校に戻って通報した後、現場に駆け付けた教師や警察は、もぬけの殻の部屋を見ることになった。
しかし、床には明らかに自殺の痕跡を処理したあとがうかがえた。
いったい、誰がなんのために、小学生の自殺死体を隠してしまったのか?
ミチオは、三歳の妹のミカとともに、気になる事件の真相を探り始める。
そもそも、友人は本当に自殺だったのか?そうでなく、殺されたのではないかという疑念がわく。
それならば、証拠隠滅のために死体を隠ぺいしたことも、説明がつくからである。
そして、事件の前後で、次々と発見された犬猫の虐殺死体との関係は?
思いもよらない出来事があり、最後に事件の真相が明かされて。。。


なるほど、ねえ。
なんというか、もはや「すれっからし」の読者を相手にしなければならない国内では、トリックというと叙述トリックしか残されていないのだろうか。
「読者を騙す」という目的から考えれば、叙述トリックはその究極的なものである。
ただ、ミステリは、そもそも「読者を騙す」ことが目的なんだろうか?
大向こうをうならせるのは、一つの夢だとは思うが、なんというか、、、もう少し「おおらか」であってもよい気がする。
まあ、作家をそういう風にさせてしまうのは、もちろん読者の責任であるわけだが。

評価は☆。
伏線の回収もされているし、そうかといって、最後に明かされた真実が、果たして本当に真実なのか?という疑念も残る。
そもそも、個人の主観とはそういうものであるし、それに気づかせるという点は評価されてよい。優秀な作品である、と思う。
しかし、こういう作品が読みたいか?と言われると、、、うーん、である。

個人それぞれの主観の中で、曖昧な部分は存在する。
個人の主観とは、多くの人に共有されれば「常識」になるが、そうでなければ「ゆがんで」いる。
解かりやすくいえば、ある宗教を信じている人にとっては、すべての現象が「神様の言う通り」に見える。すべて、それで説明がつく。都合が悪いことは、すべて「信心が足りない」のである。
陰謀論を信じている人にとっては、世界はロスチャイルドが支配している。リーマン・ブラザースがあえなく潰れたり、ドル相場の下落でFRBが大損こいても、彼らが世界を自由に支配している、という信念は変わらないだろう。
マルクス主義者にとっては、世界はマルクスの予言したとおり、ますます資本主義の矛盾が先鋭化していくと見える。ソ連が崩壊しても関係ない。
上記は、結果を説明できる理論が正しいと考える人間の認識の穴をついた、よく見られる「歪み」であるが、そこまででなくても、個人のものの見方は多かれ少なかれ、歪んでいる。
神の視座を持たないかぎり、それは避けようがないのである。

「科学」ならば、そうではない、と人が期待したことがあった。
しかし、量子力学は、客観的な観察はありえず、観察そのものが対象に影響を与えることを証明してしまった。
そういう意味では、世の中に「主観」と「客観」の区別はつけにくくなった。
実際は、これらは混然一体となっている。
早く言えば、世の中は、わからないことが本質である。

であればこそ、もう少し、ゆとりのある物語のほうが良い、と私は思うのである。
厳しいのは、現実だけで、十分ではないですかねえ(苦笑)。