Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

思想信条の自由と信教の自由。

思うところがあり、メモ代わりに書いておく。

最高裁判官の名著って「ただの迷著じゃないのか」と思ってしまう。
これ↓

ニ) 保障の意味 このような思想・良心の自由を「侵してはならない」とは、第一に、国民がいかなる国家観、世界観、人生観をもとうとも、それが内心の領域にとどまる限りは絶対的に自由であり、国家権力は、内心の思想に基づいて不利益を課したり、あるいは、特定の思想を抱くことを禁止することができない、ということである。たとえ民主主義を否定する思想であっても、少なくとも内心の思想にとどまる限り処罰されない、と解すべきである。
憲法・第三版」(芦部 信喜著/岩波書店 140ページ)

芦部信喜氏の説は、トンデモではないかと思われる。
何故と申すに、そもそも「内心の自由」は、憲法典で保証なり規定されるべき性質のものではないはず。
よくよく考慮してみれば、すなわち、もしも憲法典において「内心の自由を制限する」と定めたとして、そもそも人間が「思う」ことをいかにして制限すべきか?これこそ自明の理であるけれど、つまり「人間がものを思う」のは「もとより自由」なのであって、これを制限する法など存在し得ないことは明白でありましょう(現実の法規範力を全く発効しないのであるから)。内心の自由は、法規範の対象としてそぐわないことは、明らかではないでしょうかな。
だから「思想信条の自由」をいうのならば、そりゃ「思う自由」を保証したのではなく、思ったことに基づいて発言したり著作を発行したりする、その行為自体を保証したとしか考えられませんがな。

じゃあ、実際に公共の福祉に反する場合はどうするか、というと(やばい出版物、など)その基準は時代に応じて変わるわけで。昔はケが見えたらアウトでしたもんなぁ。「いや、人間、ケがあるのが当たり前である!」という思想信条は侵害されているわけだけど。でも、見たくない人も多いわけであって(ロリコンという意味ではない、、、と思う)ちょっとガマンしてちょーだいって話になると。公共の福祉に反しない、つまり、そのときどきですけど「基本的にオールオッケー」「あんまりマズイときだけダメにする」ってことで。
だから「公共の福祉」はあくまで「停止条件」であって、基本的に「オールオッケー」。これが大事。公共の福祉を優先するというほうが、あくまで例外。だから「公共の福祉のために」「思想信条の自由を考える」のじゃない。順番が逆ってことで。
アシモフのロボット3原則と同じで、ルールは上が優先。つまり、条文で「1,2,3」とあるときは、1を優先し、「1に反さない限り」2を優先し、「2に反さない限り」3を優先する。(ネタ元がわかる人にはわかる)なぜそうなっているかというと、アシモフ自身がロボット3原則を書いたとき、法典のフォーマットを参考にしたから。アシモフが先じゃない(笑)
憲法20条は、文字通り「1,2,3」になっている。

信教の自由との関連において言いますけれども、たとえば江戸時代において幕府が切支丹信仰を弾圧したときですら「いや、内心で思うのは自由である」といえば、それは自由だったという理が成立するでしょうかね?
そうではなくて、自由があるというならば、礼拝堂に集まることも、マリア像を安置することも、十字架を下げることも自由でなくては自由とは言わぬ道理でありませんかな?「思うのは自由だから自由」だというのであれば、そも憲法典が何のためにあるんだか、わけがわからんでしょうが。
すなわち、内心の自由は法規範の対象外というのが、少なくとも実定法的な法理解ということであって、最高裁靖国関連判例を見ても(いわゆる法的利益の存在を前提にするのが多数意見であるから)明かというべきではありせんかな。

ていうか、、、この芦部信喜なる人「少数意見」を述べてるわけね。。。はー、道理で。納得。。。

「この程度の憲法理解で」小泉首相靖国参拝を批判している法学の徒が根拠にしている芦部 信喜著「憲法」ですが、この本のほうが、よほど「この程度」かと思われます。。。
私が法哲学やったせいで、そう思ってしまうのかな?