Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

自由はどこまで可能か

「自由はどこまで可能か」森村進

リバタリアニズムに関する入門書。リバタリアニズムは、最近ではよく「新自由主義」と訳される。
たいがいグローバリズムとセットになっており「格差拡大」「弱者いじめ」の「小泉改革」の思想だ、ということなるので、今やマスコミにおいて最も批判される思想(笑)である。
本書は、そのような世間に流布する浅薄なリバタリアニズム理解を超える本である。

冒頭、著者は有名な「臓器クジ」問題を提示する。いわば「負の宝くじ」である。この「宝くじ」に当たった人は、臓器を抜かれて死ぬことになる。もちろん、彼の臓器は、全ての必要な人に役立つ。つまり、一人の犠牲で多数の人の生命が助かるのである。ならば、これは「社会的に有用」であることは、算数的に明らかである。
しかし、この提案に対して、多くの人は反発を覚えるだろう。「社会に役立つのに、なぜダメなのですか」
これに対して、突き詰めていけば「私の身体は私のものである」自己所有権の問題に突き当たらざるを得ない。この思想こそ「リバタリアニズム」なのである。
リバタリアニズムの思想的立場は、個々の問題に関しては一様ではないのだが、基本線は「人間は、自由に生きていい」ということである。

リバタリアニズムは、自己所有権から発して、財産権を肯定する。たとえば「共有」という概念に対しては、おそらく「誰のものでもない」のは「無主」と同じであり、それ故にこそ問題が生じると反論する。
たとえば、ゴミの問題を考えてみよう。「公共の場所」は汚くても平気だが、自分の家はみんなきれいにするではないか。「みんなのもの」に、我々は愛着をもってメンテナンスしない。
同じことが資源問題でも言えると著者は指摘する。収奪がおきるのは、それが「自分のものではない」と、実は心の底では考えているためである。
みんな、自分のものは大切に使うではないか。自分の山を禿げ山にはしないで手入れするが、他人の山もしくは公共の山に対して、同じ愛着と努力を注ぐことはしない。
資源が「私のもの」であれば、石油も大切に使うであろうし、山菜のタラの芽をとりつくして枯らしてしまうことはしないのである。

評価は☆☆。著者はリバタリアニズムの考え方でいけば、結婚制度はいらないと言う。私も、理詰めで考えていくと、そうなるだろうし、たぶん日本ではあと1世紀でそうなるような気がする。
あるいは、国家そのものが、遠い未来には無くなるだろう。今は、まだ無くなるには早いとは思うが。

著者は、国家が国民に強制することとして「徴兵」や「戦争」ばかりを上げるのは可笑しい、と批判している。その最たるものは「税金」ではないか、というのである。まったく正しい批判であると思わざるを得ない。

そういえば、最近「裁判員制度」が「強制労働」だというので、反対するという意見がある。もっともであるが、ならば「納税」はどうであろう?実際には、労働によって税金を納めている人のほうが遙かに多い。その「納税」に該当する労働は「強制労働」ではないか。まずもって、納税に反対しなければ、論理の一貫性を欠くように思われる。

なお、老人福祉においても、リバタリアニズムの立場から著者は指摘している。
そもそも、子供が親を扶養しなければならない、というのは成り立たない。親は子供を扶養するが、それは子供が自活できないからやむを得ないことである。それに対して、親はそれまで自力で老後に備えることができたはずである。仮に、子供に責任があるとしても最小限度だろう。
このように考えていくと、婚姻制度もなくなるし、親子関係も淡泊な「友人同士」のようなものにならざるを得ない。
それこそ「しがらみのない、自由な生活」としてリバタリアニズムは評価するのである。

まったく論理はその通りである。ただ、私はなかなか、そこまで思えない部分も多い。それは、今の時代だからだろう。
もしも私が100年後に生まれていたら、本書に書いてあることを「まったく当然」だと考えた可能性は高いように思った。

思考実験の枠を超えて。一読をおすすめしたい本である。