Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

視点をずらす思考術

「視点をずらす思考術」森達也

著者はオウム真理教のドキュメント映画「A」「A2」で有名になった。
いわゆるマスコミの限界を超える言論人として、一部で有名である。
反権力的スタンスが特徴である。

本書は、決して「視点をずらす思考術」の紹介本ではない。そんなことは、ちっとも書いていない。
前書きにいわく「かなりKY」な著者が、そのKYであるところの反権力的なスタンスで書いたエッセイ集だから。
そうすると、本書は「看板に偽りあり」ということになる。
しかし、そう固いこといいなさんな、そんなのもアリじゃだめかい、決めつけなくてもさあ、というのが本書の主旨なのである。
だから、このタイトルでいいんだろうねえ。

オウム真理教事件において、いわゆる微罪逮捕が繰り返され、転び公妨(勝手に警官が転んで公務執行妨害として逮捕する)ならぬ「殴り公妨」(信者を殴った上で、殴られたとしえ公務執行妨害で逮捕する)まであらわれ、しかもそれが多くのカメラの前で行われた。
見守る群衆は警察を誰もとめず、それどころか声援を送った。
これが日本のメディアの体制翼賛体質だ、と著者は主張する。
そして、この流れは、いずれは憲法9条にまでおよび、いつかの軍靴の音が~~~と続く。伝統芸である(苦笑)。

評価はしない。なぜか。
著者は、視点をずらす思考術を欠いているので、これらの批判すべき表象の下の別の側面をきれいに見逃しているのである。

たとえば、オウム事件を見よう。
私は、彼らの動機が宗教的情熱と結びついた一種の「優しさ」と「純粋さ」であることには、まったく同感である。
だから、当時マスコミに出た言論人のオウム批判「こんなのは本当の宗教じゃない」は、大間違いであった。
宗教ならずば、あれほどの事件を起こせるはずもない。そこまでは、著者にまったく賛同する。
しかしながら、マスコミ体制翼賛構造に至った所以、その根本に結びついた9条擁護派の間違い、そして法の地平に関する認識は不足である。

オウム事件を思い出してみよう。
たとえば、当時、オウムウォッチャーとしてテレビにでていた江○○子やアリ○ヨシ○やらは、どうであったか?
彼らこそ、9条大好きの人権派であった。
その人権派は、あのとき、何を主張したか?「警察が、公安が、もっと早く強制捜査していれば、こんなことにならなかった」と語ったのである。
しかしながら、新憲法では、人権を重視し、信教の自由を保障しているではないか。
それゆえ、単に「アヤシイ」だけでは、公安警察強制捜査などできるものではない。人権侵害になりかねないから。
ゆえに、警察は「人権を尊重して」慎重捜査方針に徹したのである。

これら人権派が、事件が起こった途端に人権抑圧もやむなし、彼らは社会悪だと掌を返した。
それを、われら視聴者は目撃したのだ。
かくて、マスコミのたがもはずれた。視聴者は、戦後民主主義の「フィクション」であることを、いやというほど感じざるを得なかった。

これが、オウム事件が戦後最大の思想的事件であるゆえんである、と私は考える。大転換点だった。
著者は、メディアの世界に身をおきながら、このような視点にまったく欠けている。
だから、翼賛報道=軍靴の音が~~~という伝統芸しかできないのだ。

警察の微罪逮捕が、まさに人権蹂躙であると看破したまではいい。
そこから先の掘り下げは、浅すぎると私は思う。

ついでにいえば。
オウムがたくらんだものは「内乱」である。
もしもオウムの蜂起が成功したら(可能性はなかったであろうが)彼らは無罪である。
なぜなら、彼らが政府になるからだ。
警官も人権派もすべて反政府であるから、犯罪者である。

憲法は、国民を規制する法ではなく、政府を規制する法であると著者は述べる。
当たり前の解釈である。
しかしながら、内乱が起こった場合に、そんな解釈は容易に吹き飛ぶ。
法は解釈ではなく、力から生まれている。
それが、法の地平である。
オウム事件は、その地平を「ぞろり」とした形で、我々に対して提示したのであった。
その事件を執拗に取材した著者は、理屈はわからないが、憲法9条は大事だ、ビンラディンは反米だから好きだけど人殺しはいけない、理屈はわからないけど「先延ばし」だっていいだろう、と主張する。

本書に、視点をずらす思考術があるのではない。
ずれた視点の思考を、本書に読み取ることができる、と私は思う。