Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

大悲の海に 覚鑁上人伝

「大悲の海に 覚鑁上人伝 」津本陽

私は浅学にして覚鑁(かくばん)上人を知らなかった。
どうやら、空海のひらいた真言宗の中興の祖と言われている人のようである。
のちに根来寺の開祖だそうである。根来は雑賀とならんで、武装仏教集団の鉄砲衆として、各地で猛威をふるった。
長島合戦にも参加しており、織田信長軍をさんざんに苦しめた勢力である。

覚鑁上人は、九州佐賀の生まれで、父親は下級武士であったようだ。三男坊だったので、幼いころから寺に預けられたが、早くから秀才であった。
そこで、和尚に見込まれて上京し、まずは仁和寺で修行することになる。
その後、東大寺で受戒し、その頃は空海死後300年を経て、すっかり荒廃していた高野山にのぼる。

鎌倉時代といえば、いわゆる鎌倉新仏教が次々と勃興してくる時代で、とくに浄土思想を背景に阿弥陀様の本願にすがり念仏を唱える浄土宗や浄土真宗が一世を風靡したようだ。
さらに、開祖への個人崇拝が仏教では珍しい個人崇拝の日蓮宗や、座禅の臨済宗曹洞宗が次々と出てきた。

これらの背景であるが、平安末期から、いわゆる「末法思想」が流行る。このころの社会の不安定さに原因があった。
とにかく飢饉が次から次へと起こるのである。
そのたびに、おおくの人がなくなり、その死骸があちこちに無造作に打ち捨てられている、という有様であった。
当時、人々にはいわゆる火葬の習慣がなく、死体は野山にうち捨てられていた、という。
これを集めて、油をかけ、焼いて弔ったのが有名な空也上人である。
では、ほかの僧は何をしていたかというと、上皇のもとに押しかけて強訴を行い、僧兵を蓄えて暴れまわっていたのである。
何しろ食えない時代であって、信心もなにもなく、ただとりあえず食えるからという理由で僧になるものがおおかった。おかげで、僧は自分が唱えている経の意味すら知らなかったという。
真言宗も、厳しい高野山で修行する僧は激減し、みんな京で自堕落に過ごし、たまに貴族から依頼があると加持祈祷の霊験を競っていたのだ。
そんな中、あえて高野山にのぼり、空海の教えを復興しようとしたのが覚鑁上人というわけである。
彼は時の鳥羽上皇から大変な信任を受けて、なんと35歳にして密教諸派の伝法をことごとく灌頂してしまったという。

しかし、この若き俊才が高野山の頂点を極めるのは、それまで高野山で修行していた諸僧は快く思わず、ついに彼を放逐してしまう。
高野山を下山のやむなきに至った覚鑁が開いたのが根来寺というわけである。

根来寺覚鑁は「蜜厳浄土」思想を打ち立てる。阿弥陀如来の浄土を「極楽浄土」というが、大日如来の浄土が「蜜厳浄土」である。
そして、その浄土にいくのに、いわゆる三蜜は必要なく、一蜜だけあればよいとした。
つまり、真言を唱えるか、印を結ぶか、止観(禅)をするかである。どれか一つを行えば、そのままの身で浄土(即身成仏)へ行けるとした。浄土は「あの世」でなく、すでに「今ここ」だという密教思想につながる。
また、いわゆる葬式の作法を定めたのも覚鑁上人であるようだ。


評価は☆。
私は、正直なところ、仏教史に詳しいほうではなくて、本書の中に頻出する仏教用語にも不案内である。
なので、正直なところ、少々読みづらかったというのが本音だ。
しかし、真言宗を中興せんとする覚鑁上人の気迫は、十分に感じ取ることができた。

だいたい、どの宗派もそうなのであるが、長い年月の中で必ず風化し忘れ去られる時期を迎えるものである。
そのとき、中興の祖といわれる偉い人が出てきて、また盛り返すのである。
これが時の錬磨に耐えるということで、教えそのものに心をとらえる力がなければ、中興の祖も出てこず、そのまま忘れ去られた宗教に成り果ててしまうのである。
だから、やはり「長い年月を耐えてきた」宗教は、申し訳ないがそこらの新興宗教とは、格が違うのである。

日本の仏教を揶揄して「葬式仏教」という。
なんだ、葬式のときばかり出てきて、お布施をとりやがって「坊主丸儲け」だという批判である。
ならば、クリスマスと結婚式のときだけでてくるキリスト経は「お○んこ宗教」ではないか、と喝破したのは呉智英であった。腹を抱えて笑ったものだ。

しかし、本書を読んで思うのである。
「死ねば人間はごみ」なので、死んだ途端に「生ごみ」としてそこらの野山にうち捨てられるのが(現在ならごみ処理場か)合理的で、宗教くさくなくて、だから素晴らしいとでも言うのだろうか?
それよりも、悲しみの中でも「やることがある」儀式を粛々とこなしながら、古式にのっとって葬儀を行い、そのときに自分の命もまた無限でないことに思い至すのと、どちらがより文明的であるか。
そんなに合理的が良いのであれば、どうせ人は死ぬのだから、早いほうがよかろう、さっさと死んだらどうだろう。それこそ無駄がないというものではないか。

人間が生きること、そのものが不合理であり、理屈に合わないことの繰り返しである。
そして、壮大な無駄であるかもしれない。
だから良いのではないか、と思う。

何事も合理的に割り切れ、判断可能だという考え方そのものが、実はほかならぬ宗教なんですなあ。しかし、その宗教は、なんとも味がないことよ。