Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

神狩り

「神狩り」山田正紀

大学時代に読んだ本を再読。
日本人は無宗教だ、という説に疑問を覚えたからである。

本書は山田正紀のデビュー作である。
若書きらしく、意余って字足らずという感じが否めないが、着想は面白い。
優秀な若手言語学者が、こともあろうに「神」を相手に戦う、というストーリーである。

その神だが、もちろん「コレが神です」などといって出てくるわけはない。
「私がアラーです」などといって出てきたら、どこかのイタコ芸人の霊言になってしまう。(ついでにいえば、あの霊言は芸としては一流である。抱腹絶倒)
で、その神のシンボルとして出てきたのが「古代文字」である。
論理記号が2つしかない、という古代文字こそ、神の記したシンボルということになるわけだ。
では、なぜ神はわざわざ、くだらない人間相手に、そのような手の込んだシンボルなぞを示すのか?
これは「神が遊んでいるから」というのが、その回答なのである。
神は、全知全能で、基本的にヒマなのであろう。
だから、人間をダシにして遊ぶわけである。命なんざ、神にとっては貴重でもなんでもないわけだ。全知全能だから。
しかし、遊ばれる人間はたまったものではないので、なんだこのヤローという北朝鮮状態になる。
「神を狩る」という壮大な意図がそこで出てくるわけだ。
そうはいっても、神を狩るなどということが、そう簡単にできるわけはない。
ところが、ラストに、神は意外な弱点を見せるのである。
人間が宇宙へ行く、ということの意義を、地上を支配する神、という概念に対置して小説は終わる。

評価は☆。

大学時代には、やたら興奮してすごい小説だと思った。
今は、さほどでもない。
一つには、時代ということもあるだろう。
本書の中に出てくる連想コンピュータを、現代のAIはとっくに追い越したように見える。
少なくとも、30年前に、コンピュータが人間の棋士を負かすことは不可能じゃないか、と真面目に考えられていたのだから。
量子力学分子生物学の発展は、たしかに人間自身を少しだけ「神」の領域に近づけた。

ただ、ふと冷静になって考えれば、単に人類が昔もっていた「神」という概念をそのまま「科学」というものに置換しただけのように思える。
全知全能である、すべては解析が可能だというのが科学的態度だとすれば、それは単にかつての神官が科学者にとって変わったに過ぎないわけだ。いわば「科学教」である。
本書が衝撃だったのは、人間の思考様式そのもの(つまりは人間の頭脳そのもの)に限界があって、すべての「科学的」な成果は、その下で生まれたものに過ぎないという指摘だった。
科学を生み出したのも人間の頭脳であり、七重を超える関係代名詞は理解できず、論理記号が5つの言語を操る人間の脳で考え出された世界に過ぎない、ということである。
数学でゲーデル不完全性定理で証明したように、もしも人間の頭脳による思考形式を自然数体系の一つと見なせば、それ自身の無謬性は証明できないわけだ。
簡単にいえば、科学でもって科学が万能なことを証明することは不可能なのである。

で、実はなんとなく、その程度のことは日本人が自然に体得していることのような気がしたわけだ。
日本人は、やたら自然を敬う気持ちが強い民族であるが、つまりは「人智を超える」という世界をいわば当たり前のように前提にしているところがあるように思う。
それを「神」とことさら言わなくても良いのである。
これこそ、世界でも希な価値観を持つ日本人を作っている根本的な価値観じゃなかろうか、と思う次第である。
つまり、日本人は西欧的な「神」という価値観では無神論だが、その無神論を超えて、実は宗教的であるということ。
ま、いわずもがな、なんでしょうが。

あんまり神だの祈りだの、という奴は信用できない。そりゃ、あなたがそいつよりも、よほど宗教的だから、じゃないんですかねえ(苦笑)