Single40'S diary

「40過ぎて独身で」の作者が、あっというまに50代を迎えたブログ

反出生主義

最近であるが「反出生主義」というものがあることを知った。
私のような子供のいない(もてない。。。)人間にとっては、大いに頷ける説である。

反出生主義は、一言でいえば「すべての誕生は悪である」という思想である。
代表的な論客はデヴィッド・ベネターで、著書「Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence」(生まれてこなければよかった;未邦訳らしい)が主な著書である。
このベネターの議論は、論理としては非常に明快で、なかなか反論が難しい議論であるように思われる。

まず、ベネターは功利主義の立場から、我々の人生を「快」「不快」に分類する。
すると、まず人にとって、快の存在は良く、不快の存在は悪である。
よって、より快を多く、不快を少なく生きるべきである、というのが功利主義の元祖、ベンサムの考えである。
ベネターは、ここで「人」でなく「生まれてこなかった人」を比較対象に上げる。
すると、生まれてこなかった人にとっては、快も存在しないが、不快も存在しない。
良くも悪くもない、中立である。

「良いことも悪いこともある」のが普通の人なので、プラスマイナスゼロ、という見方も出来る。
生まれなかった人は「良いことも悪いこともない」ので、やはりプラスマイナスゼロか?そうではないとベネターは言う。
良いことがないのはゼロで、悪いことがないのは善だというのである。

ベネターの主張は、快は「奪い取られた場合」には悪だが、最初から快がないときは、良くも悪くもない、というのである。
しかし、不快がない、ということは明らかに良い。

よって、普通の人と、生まれなかった人を比較すると、普通の人は良いことも悪いこともあるので、プラスマイナスゼロ。
生まれなかった人は、不快がないので、良いことしかない。快がないのは、良くも悪くもないから。
よって、功利主義的に、生まれないほうが良いことになる、というものである。

また、倫理的にかんがえた場合は、我々は「不幸な人を生み出さない」義務はあるが、しかし「幸福な人を生み出す」義務はない、という。
確かに、目の前に不幸な人がいたら、なにがしか救いの手をさしのべるべきであろうが、しかし幸福ではない(しかし格別に不幸でもない)人に対して、ちゃんと幸福になるように努力する義務があるか?と言われれば疑問である。
そのような義務があるのは、妻子に対してはそうであると言えるだろうが、広く一般に対して適用するのは困難だろう。キリストさんなら話は別だけど。

そういうわけで、人は生まれないほうが良い、というのがベネターの結論である。

この思想の弱点は、既に自分は生まれてしまっている、ということであるが、じゃあただちに死ね、とはならない。
なぜならば、死を強制されるのは言うまでもないが不快だからで、悪だからである。
ベネターの主張は、あくまで不快を避けることにあるので、死んでしまえという議論は当たらない。

思えば、かの釈尊も「生きることは苦である」と説き、解脱とは輪廻しなくなること、すなわち「生まれてこなくなること」だと説いた。
反出生主義は、原始仏教思想とも通じ得るものがあると感じる。


つまりですね。
私のように、この世の配偶者獲得競争に敗れて(敗者が生まれるのは自由競争社会においては必然)子供を持てない人間であっても、次の世に「生まれない」ことで、倫理的には正しいことをしているワケであります。
そう考えると、このトシにして、ようやく心が慰められる事態であると思うわけですね。

まあ、ゼロでスタートして、死ぬときはまたゼロに戻るわけですが、その間は、せめて心穏やかに過ごしたいものですなあ。