「SOSの猿」伊坂幸太郎。
物語の冒頭はエクソシストの青年が出て、ひきこもり少年を助けてほしいという話を聞く。別にひきこもりが必ず悪魔が接いているわけではなく、単にセラピーのときも多分にあるらしく、青年はひきこもり少年の自宅に赴く。
一方、場面が変わってソフトハウスの品質管理部の中年男が出てくる。この男は何かにつけて融通のきかない性格である。その男の会社の顧客の証券会社が、巨額の損失を出してしまう。1株50万で売却という指示をシステムに入力すべきところ、誤って1円50万株の売却を行ってしまったのだ。
中年男は、顧客先に調査に入る。システムに不具合はなく、単に不注意による入力ミスなのだが、その担当者は寝不足であった。寝不足の原因は、隣の部屋が夜うるさかったからであった。。。
エクソシストの青年は、ひきこもり少年から摩訶不思議な話を聞かされる。彼は孫悟空であるのだ。そして、孫悟空である証拠に、未来の予知ができるのだ。
ひきこもり少年は、ある証券会社が巨額損失を出すのだが、その原因は担当者の隣の部屋で家族間の虐待殺人事件が起こったことで、現場には死体が放置されているのを発見することになる、と言う。
エクソシストの青年はいつのまにか三蔵法師の役回りをさせられ、品質管理の中年男と一緒に担当者の隣の部屋のドアを開ける。
その部屋は異様な状況になっていた。。。
この人の本は以前に「アヒルと鴨のコインロッカー」を読んで、結構面白かった。
軽妙なユーモアと練り込まれたストーリーが特徴であろう。
本書もそうだ。
評価は☆。
肩のこらない一冊である。
日本人の作家で、こういう重層的なストーリーを書く人は珍しい。欧米作家では、2つもしくは3つの物語が平行しながら一つにまとまっていくのは一般的だが、日本人作家はだいたい単一直線である。
私が思うに、理屈の問題ではなく、感覚の問題なのだと思う。
音楽がそうである。西洋の音楽は、シンフォニーのように各パートがそれぞれの音階を展開しており、全体が響き合う。
日本の古楽を聞くと、旋律は単一である。いわゆるハモる、という感覚がない。
この伝統はいまだに日本の大衆音楽にも受け継がれており、アイドル歌手は全員がユニゾンで同じ旋律を歌う。
アイドルでも、昔のピンクレディもキャンディーズも、ちゃんとパート別があったのだが、退化してしまったのか?
全員がメインのメロディーを歌うというのは、世界的に見るとちょいと異様な文化なのではなかろうか?と考えたりする。
日本人の思考様式もこのへんが影響しているのか、とかく白か黒かを決めたがり、それぞれの理屈が共鳴して結論を導き出すのが苦手なように思う。
裁判で弁護士に対して「なんで、あんなやつの弁護をするのか」などと文句をつける日本人のなんと多いことか。
白と黒のパートがあって、あわさって初めて作品でしょうが、といってもわからない。
邦楽のせいだろう、、、などと、とんでもない方向に話が飛ぶsingle40であった。。。(苦笑)
日曜日の読書というのは、そんなどうでもよいことを考えがちになるのだ。
そこがまた、たまらんところなんですがね(笑)