Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

ソニーを創ったもう一人の男

ソニーを創ったもう一人の男」大朏博善。

ソニーといえば、創業者の井深大盛田昭夫の二人が有名だ。しかし、実はもう一人、創業直後のソニーに加わった重要な人物が居る。技術畑のトップを務めた岩間和夫である。

岩間は東大出身で、戦時中はレーダーの欺瞞体の開発をしていた。
有名な「キスカ撤退作戦」というのがある。アッツ島の守備隊が玉砕し、キスカ島は米軍の勢力下にあって、日本軍守備隊は絶望的な状況にあったのだが、この守備隊が一兵も損せず撤退に成功する。世界戦史に残る撤退作戦と言われている。
このキスカ撤退作戦のとき、米海軍は濃霧の中、日本艦隊らしき影を発見し、レーダー射撃する。実は、それが岩間の開発した「欺瞞体」であって、ただのオトリなのだ。ホンモノの艦隊はその隙にとっとと逃げられたわけで、岩間は「あれはうまくいった」と語っていたようである。
たしかに、技術屋として考えれば、人を殺す道具の話なんぞよりも、煙のように逃がしてしまう発明のほうが、よほど面白くて満足できる結果ではないかな。

戦後は東大の地震研にいたところを、幼なじみの盛田に誘われて東京通信工業(のちのソニー)に入社する。(奥さんは盛田の妹である)人生を、海のものとも山のものともわからぬ中小企業に賭けたわけである。

岩間は、RCAの特許に基づいてトランジスタ生産をしていた米国ウェスタン・エレクトリックに行き、史上名高い「岩間レポート」を書く。これによって、ソニートランジスタの自社生産に成功するのである。

また、後年は、ソニーにとって社運をかけたプロジェクト「CCD開発」を牽引した。CCD(撮像素子)は、今ではデジカメに普通に使用されているが、当初はずいぶん先行きが危ぶまれた技術であった。ヘタをしたらソニーはつぶれる、という噂まであったが、未来を信じたのだ。その執念は報われ、ソニーのCCD生産高は今や世界一である。
ガンのために3人の中で一番先に死んでしまった岩間の墓石には、小さなCCDが埋め込まれている。

戦後の復興は、決して幸運に恵まれただけでも、東西冷戦の中で位置が良かっただけでもない。日本の戦後復興を、ともすれば「国際政治の産物、米国が支援したから」と片付けるのは、およそ生きた経済を知らぬ戯言に等しい。
実際には、いくら支援を受けても、ますます支援頼みになってしまう国も沢山ある。一方、大変厳しい状況から、見事に立ち直る国もある。それはひとえに、たとえばメーカーであれば高い技術に関する見識と、必死の努力で働いた人間達の賜物なのである。政治など、たいして物事の解決には役立たないものだと思う。

評価は☆☆。
開発職という仕事をしている人間であれば、やはりこんな仕事がしてみたい。こういう仕事をさせた会社も素晴らしい。また、井深はトランジスタなどには興味の欠片もなく、ただ「世界一小さいラジオ」を創りたかったという話があるが、頷けるものがある。民生技術はそういうものだし、そんなちょっとした夢を実現するべく精魂傾けるのは、なんとも言えず楽しいものなのだなぁ。
優秀な学校を出た学生が、大きな会社や役人になりたがるばかりでは、世の中は面白くない。たしかに、大きな会社のほうが、安全で金払いも良いのだからそうなのだが、賢い人がそればかりでもつまらぬと思うのである。賢い人には、馬鹿になってもらわないと、うまく釣り合いが取れないのじゃないか。賢い人が賢い生き方ばかりする世の中というのは、どうもつまらないように思う。

偉大な、というよりも爽やかな技術者の物語である。たまには、こんな本も悪くない。