「ジェニィ」ポール・ギャリコ。
猫好きならば、一度は読むべき本。
ピーターは8歳の男の子だが、ある日、道に飛び出したところをクルマにはねられてしまう。
意識を失ったピーターは、目が覚めると、白い一匹の猫になっているのだった。
やむなく、ピーターは「猫としての生活」を始める。
自動車や人間の靴に驚き、逃げ回り、空腹ですっかり弱ってしまったピーターを助けてくれたのは、ジェニィと名乗るエジプト猫の末裔の雌猫だった。
彼女は、ネズミの取り方や身繕いの仕方など、猫としての生き方をピーターに伝授してくれる。
やがて、二匹は船猫として旅をし、互いの絆を深めていく。
船旅から戻った二匹の前に、ジェニィの元の優しい飼い主が現れるが、彼女は、ピーターとの生活を望み、安楽な生活には戻らない。
しかし、ピーターは、うっかり外で出会った魅力的な雌猫に魅入られ、すっかり遊び呆けてしまう。わかりやすく言えば浮気である(笑)。
ようやく目が覚めて、戻ってきたピーターを、ジェニィは黙って迎え入れる。感謝するピーター。
ところが、そのジェニィの様子がおかしい。
近所のボス猫が、彼女を求めているのだ。
猫の世界のルールでは、ピーターがジェニィと一緒に暮らすためには、ボス猫と死を賭けて戦わなければならない。
ピーターは、ボス猫との戦いを決心する。。。
意識を失ったピーターは、目が覚めると、白い一匹の猫になっているのだった。
やむなく、ピーターは「猫としての生活」を始める。
自動車や人間の靴に驚き、逃げ回り、空腹ですっかり弱ってしまったピーターを助けてくれたのは、ジェニィと名乗るエジプト猫の末裔の雌猫だった。
彼女は、ネズミの取り方や身繕いの仕方など、猫としての生き方をピーターに伝授してくれる。
やがて、二匹は船猫として旅をし、互いの絆を深めていく。
船旅から戻った二匹の前に、ジェニィの元の優しい飼い主が現れるが、彼女は、ピーターとの生活を望み、安楽な生活には戻らない。
しかし、ピーターは、うっかり外で出会った魅力的な雌猫に魅入られ、すっかり遊び呆けてしまう。わかりやすく言えば浮気である(笑)。
ようやく目が覚めて、戻ってきたピーターを、ジェニィは黙って迎え入れる。感謝するピーター。
ところが、そのジェニィの様子がおかしい。
近所のボス猫が、彼女を求めているのだ。
猫の世界のルールでは、ピーターがジェニィと一緒に暮らすためには、ボス猫と死を賭けて戦わなければならない。
ピーターは、ボス猫との戦いを決心する。。。
猫の生態を、こんなに活写した小説は珍しいのではなかろうか?
いわゆる「変身譚」であるが、普通の変身譚というのは、そこに「異種の動物からみた人間世界へのなにがしかの教訓」みたいなものが語られるケースが多い。
古くは「胡蝶の夢」あるいは中島敦「山月記」変わり種はカフカ「変身」だろうけれども。
この小説は、そういうトーンをなるたけ抑えて、むしろ「人間が猫になりきって」いく様が描かれる。
主人公のピーターは、元々人間だけど、8歳の男の子であるから、字は読めるけれども「社会批判」なんてしないのだ。
そう、つまり「猫の気持ちになりきる」というストレートな愛情以外に、この小説には何者もないのである。
いわゆる「変身譚」であるが、普通の変身譚というのは、そこに「異種の動物からみた人間世界へのなにがしかの教訓」みたいなものが語られるケースが多い。
古くは「胡蝶の夢」あるいは中島敦「山月記」変わり種はカフカ「変身」だろうけれども。
この小説は、そういうトーンをなるたけ抑えて、むしろ「人間が猫になりきって」いく様が描かれる。
主人公のピーターは、元々人間だけど、8歳の男の子であるから、字は読めるけれども「社会批判」なんてしないのだ。
そう、つまり「猫の気持ちになりきる」というストレートな愛情以外に、この小説には何者もないのである。
評価は☆☆☆。ただし、猫好きに限る。
私は、犬を飼っていたことがあって、犬が大好きである。可愛いと言えば犬、てなもんである。
猫は、どちらかと言えば、あまり好きではないほうだった。典型的な「犬派」だったのである。
ところが、だんだん年をとるにつれて、猫のかわいさが理解できるようになってきた。
あの「勝手に暮らしている感」が、なんともいえず快いと思うようになってきたのである。それぞれでいいじゃないか、などと思ってきたのだ。
不思議なモノで、こちらが憎からず思っていると、猫にもそれが伝わるらしい。
最近では、夜道を歩いていて、行き会う猫が自分に挨拶するようになった。いや、挨拶しているのがわかるようになった、というべきか。
かくて、すっかり「犬も猫も、それぞれいいじゃん」という「無節操派」に変身した次第である。
犬派諸氏には「転向者」とののしられるだろうか(苦笑)
猫は、どちらかと言えば、あまり好きではないほうだった。典型的な「犬派」だったのである。
ところが、だんだん年をとるにつれて、猫のかわいさが理解できるようになってきた。
あの「勝手に暮らしている感」が、なんともいえず快いと思うようになってきたのである。それぞれでいいじゃないか、などと思ってきたのだ。
不思議なモノで、こちらが憎からず思っていると、猫にもそれが伝わるらしい。
最近では、夜道を歩いていて、行き会う猫が自分に挨拶するようになった。いや、挨拶しているのがわかるようになった、というべきか。
かくて、すっかり「犬も猫も、それぞれいいじゃん」という「無節操派」に変身した次第である。
犬派諸氏には「転向者」とののしられるだろうか(苦笑)
まあ、そうはいっても「なあなあ」「えーかげん」で物事がなんとなく済んでしまうのが、本邦のうるわしき伝統であるぞ。
「あれ」と「これ」常に「対立」から結論が生まれるなどという18世紀欧州的思考様式に、なにもとらわれる必要はないじゃないか。。。などと、余計な言い訳だろうかねえ(苦笑)
「あれ」と「これ」常に「対立」から結論が生まれるなどという18世紀欧州的思考様式に、なにもとらわれる必要はないじゃないか。。。などと、余計な言い訳だろうかねえ(苦笑)