物語の冒頭では、東京湾の埠頭にある冷凍コンテナボックスを利用したレンタル倉庫の中から、大量の死体が発見された場面で始まる。
寄せ集めの捜査本部で、これで事件は奇妙な自殺事案として終了するかと思われたが、若い女性刑事クロハが動機の解明をするべき、と頑張る。
そうしているうちに、別件と思われていた連続殺人事件の被害者と自殺者の間に関わりがあったことが明らかになる。
集団自殺事件と連続殺人事件の背後には、同一人物が存在するではないか?
クロハの周囲には、奇妙な男達が現れては、捜査の進展状況を強引に聞き出そうとする。
そんな彼女のわずかな楽しみは、仮想空間で「アゲハ」と名乗り、お気に入りのバーでたわいもない話を交わしながらくつろぐことだった。
ところが、その仮想空間と事件の間に、妙な共通点を見いだしはじめる。
仮想空間の世界と現実の世界が入り交じりながら、クロハは犯人に迫りはじめる。
なろほど、こりゃラノベ出身作家らしいわなあ。
アニメでいえば攻殻機動隊で、クロハは草薙の若き日をイメージしているような感じもする。
無機質な都会の風景と、常に雨が降っているところは、バリー・アイスラーあたりのハードボイルドとかぶったり。
しかし、なんというか、イマイチ座りが悪い。こなれていない、というべきか。
たとえば、主人公のクロハは常に腹を空かせている。なぜって、全然モノを食っていないからだ。
食欲がない、などといっている間に事件が起きて、現場に駆けつけて、大変な目に会う。
で、なんとか危地を脱出して、つかの間の休息のときは、疲れて何も出来ないと言っては食わない。
ちょっと考えてみればわかるが、これだけの派手なアクションをかましながら、ハードなスケジュールをこなして、メシを食わないで人間もつわけがない。
小説の雰囲気として、無機質でメタリックな情感を出そうとしているので、主人公がガツガツ飯を食う場面を出しづらいのだろう。
おかげでリアリティがなく、小説というよりもアニメのシナリオを読まされているような感じになる。
早い話が、「絵」がついていないと、人間ばなれした書き割りのキャラクターが動いているような感じで、サッパリ喜怒哀楽が感じられないのである。
小説としてはイマイチじゃないかねえ。
評価は、オマケして☆。
アニメ化したら、結構いけるかもしれないので(笑)。
ハードボイルドというのは、基本的に喪失の痛みと、そこからの再起の物語である。
再起したからといって、喪失したものが戻ってくるわけではない。
痛みを忘れるわけでもない。
それでも立ち上がるところがハードボイルドなのである。
日本のハードボイルドは、その喪失の痛みがイマイチ弱い。
だから再起の物語の切実さが薄くなるのである。たぶん、宗教観の違いだろうと思う。
あえていえば、高木 彬光「白昼の死角」がそれらしい雰囲気を漂わせていた。アプレという「戦争で失われた青春」からの再起を、犯罪を通じて成し遂げる有様が活写されていたからだ。
大藪晴彦「野獣死すべし」にも、それがあった。
今の時代に求めるのが難しい。これは仕方がない。大沢在昌は「新宿鮫」でキャリアから外れた刑事の再起を描いたが、今の日本では、せいぜい出世ルートからはじき出されることがリアルな喪失ということになるんだろう。
ただし、時代がだんだん悪くなっているので、その中から、素晴らしい和製ハードボイルドが生まれるかもしれない。
傑作ハードボイルドが生まれない時代は、良い時代なんでしょうねえ。