Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

遠謀

「遠謀」上田秀人。副題「奏者番陰記録」。


上田秀人は歯科医師の本業のかたわら、時代小説を書き続けているのだが、その小説がとても「副業」レベルではない。
本業の作家でも、ここまで細かく江戸時代の幕府の行政に詳しくは書けまいな、と唸らされる。
ま、最近の歴史「なんちゃって仮想戦記」出身作家どもには、死んでも書けないだろう作品群である。

本書は、副題のとおり奏者番に取り立てられた水野元綱を主人公にしている。
奏者番とは、将軍に謁見する旗本や大名を、謁見の広間で将軍に紹介する役目である。早い話が司会進行だと思えば良い。
なんだ、簡単だと思ったら大間違いである。
まず、原稿を持ち込んではならない。すべて暗記である。
「ここに控えおりしは、○○の国の誰の誰ベヱでござります。先代は誰の誰右衛門でござって、誰ベヱ殿は誰右衛門殿のご嫡男にござります。先祖は関ケ原の合戦の折に力戦なされた誰の誰助でござって、恐れ多くも東照宮様よりその武功を認められ、やり一筋を拝領した名家にございます。本日は家督相続の御礼に参上なされた由にござります」
こういうのが毎日数名いるのである。
これを、各人すべて暗記しなくてはならぬ。
さらに、それぞれの識別をするのに家紋をみるわけだが、松平ナントカ氏はごろごろいるので、本日お目見えの5人が全員松平、なんてこともある。
同じ三つ葉葵の御紋でも、ちょいと葉っぱの形が違うとかの多少の差異があるのだが、それで見分けるのは困難である。
しかし、お目見えにのぞむ旗本たちにとっては、ほとんど一生に一回の将軍お目見えであるから、ここで間違えられてばご先祖様に申し訳が立たない、というわけで、間違えるわけにはいかない。
順番を覚え込むのだが、当日になって病欠などということも起こる。(江戸時代でも病欠は認められていた)
そうすると、誰を飛ばしたか、間違えると大変なことが起こるのである。

まじめに勤めていた水野であるが、とうとう、ある日間違えてしまった。
将軍家光じきじきにお叱りを受けた水野を、老中の知恵伊豆こと松平信綱がとりなして事なきを得る。以後、水野は信綱のシンパとなって働くことになる。
やがて家光が没し、家綱の時代になっても、信綱は殉死せずに家綱を支える。
そして、ついに慶安の変由比正雪の変)が起こる。
水野は動転するが、信綱は「大したことはないのだ」と取り合わない。
やがて、この変の陰に紀州頼宣がいるのではないかという話になり、頼宣は老中たちの追求を受けるが、たくみに言い逃れてしまう。
真相を聞き出すために頼宣邸を訪れた水野は、頼宣から「まだ気が付かぬのか」と問われる。
なんと、そこには既に信綱が来ていた。驚きの真相が信綱から語られる。。。


相変わらず、うまいものである。
さすがに、著者が言うような慶安の変の真相はないであろう。しかし「もしかしたら」と思わせるくらい、巧みな筆致である。
勘ぐろうと思えば勘ぐれるような状況があるからだ。歴史好きの心を知り尽くしているよなあ。
評価は☆。
まず、間違いない、ということで。


今も昔も変わらないのだが、政治の最大の課題のひとつは失業者対策なのだ。
今は失業者だったり、あるいは引きこもり、氷河期世代問題だったりする。昔は浪人問題である。
こういう人が増えると、社会は不安定になる。
経済学の目的は、まず、この失業者を救うところにある。
最近では格差問題が言われるが、まず、ゼロにいくら掛け算してもゼロである。ゆえに、格差以前にまずそもそも収入がゼロの人を救わなければならない。
氷河期の時代、日本企業は採用数を極端に絞った。不景気でも、日本の制度では簡単に解雇できない。ならば、採用を絞るしかないのである。次が「追い出し部屋」への異動となる。
よって、小渕内閣時代に、大学卒業生の内定率が4割という惨状を呈した。
小渕内閣を引き継いだ森内閣でも改善しなかった。
氷河期を脱するのは小泉内閣で、ついに労働者派遣法を改正し、一般労働者派遣を解禁する。これによって、若年失業者をはじめて反転させた。
厚労省の家計調査で見ても、小泉内閣の当時、格差は拡大せず、むしろ縮小している。失業者が減るので、これは当然である。
しかし、今、日本を貧しくしたのが小泉内閣であると批判されることも多い。
小泉内閣からすでに10年以上経つ。
本当に一般労働者派遣が原因ならば、その後の10年以上、ずっと労働者派遣法を放置してきたほうがよほど問題である。
小泉内閣当時、つまりは浪人対策に、他策があったというのだろうか。あとからは何とでも言える、という議論の典型である。

政治には、問題があっても「とりあえず今」なんとかしなければいけない、ということもある。まさに政治的決断である。
問題はそのあとである。「喉元すぎれば」すぐに忘れてしまう。
「とりあえず今」は、切羽詰まってやむにやまれず打った手であることも多い。
日本人のいけないのは、そういう場合に「そもそも、抜本的に」と考えてしまうことである。そもそも論は、結局何もしないことの言い訳に使われることが多いからだ。
法律だの制度だのというものは、ただの政治の道具である。
少しづつ直して使えば良いではないか、と思う。そうすれば早い。
拙速は巧遅にまさる。
ビジネスでもそうですが、どうも日本人は拙速が苦手だと思うんですねえ。