Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

サブカル・ニッポンの新自由主義

サブカル・ニッポンの新自由主義鈴木謙介。副題は「既得権批判が若者を追い込む」である。

ついに出た、という感じである。
ズバリ、本年度に読んだ新書の中で、この本がベストだ。私が現在「新自由主義」と、「新自由主義批判」に感じている違和感を、構造的なアプローチで見事に剔って見せてくれた。
著者にただ脱帽である。

まず、言葉の定義をしておかねばならないのだが、本書は経済学の本ではない。社会学の本である。
よって、本書でいう「新自由主義」とは、ハイエクが唱えた新自由主義的な経済政策でもなく、小泉改革批判でもない(笑)そういう内容を期待した人は、あてがはずれてぼろくそな書評を書くことになる。
そう、著者が「新自由主義」として論じているのは、そのような「新自由主義批判」も含めて、どうして「あいつが悪い」「よって、あいつを排除すれば、世の中はよくなる」と我々は信じ込むようになったのか?という点なのである。
著者は、冒頭に、新自由主義者新自由主義批判論者も、同じく新自由主義の枠に入るのではないか、という。つまり、そこにあるのは排除の論理だからである。
我々は、なぜそのような排除の論理を信じるようになってしまったのだろうか。

小泉改革が支持されたのは、一言でいえば「既得権益批判」のゆえであった。官僚や、各種規制に守られた業界、大企業。
これらに対して「ふざけんな」の大合唱は、改革に反対する者=抵抗勢力というシンプルな論理によって、大衆の支持を得ることに成功する。
一方で、小泉政権以後は、ワーキングプアの問題や老人福祉問題が大きくクローズアップされてきた。
すると、今度は「みんな小泉が悪い」「新自由主義政策が悪い」となる。経済政策的には、ハイエクの人気が下がるとケインズの人気が上がる。まるで、それ自体が需給曲線のようである(笑)

これらの社会的風潮は、簡単に言えば「○○が悪いから、あいつを排除しろ」その背後にあるのは「お前の享受している利益を、受け取る価値はお前にはないので、俺によこせ」であると著者は指摘する。
誰かを排除すれば、自分は幸福になれる。
このような考えかたが、実は根底にあるのである。

そして、このような事例を、隣国の韓国にも見出す。
盧武鉉を当選させた「386世代」は民主化で燃え上がった学生の世代であった。しかし、その盧武鉉は失政を繰り返し、韓国経済は大幅に低落してしまう。
すると、いったい何が起こったか?今の学生世代による、痛烈な386世代の糾弾であった。結果、保守派の李明博が、若者世代の支持まで取り付けて圧勝する。
(もっとも、政権が変わったからただちに問題が解決するはずもなく、李大統領は厳しい内閣運営を行っている。日本でも、同じ事が起こるように思う)
これは、今や「勝ち逃げ」批判をされている日本の団塊世代と全く同じである。
高度経済成長時代を謳歌し、年金破綻前に寿命を迎える団塊世代に対して、今の若者世代の批判は根強い。

これは、社会のルール変更の要求だと著者は指摘する。
いわば「終身雇用、年功序列」ルールの社会に「実力主義」ルールが「こっちのほうが正しい」として現れる。「終身雇用」ルールの権益からはじき出された人間は、新しいルールを支持する(ほかに有力な説得力あるルールがない)
ところが、この新しいルールは、常に努力を要求する。逃げ場がない。唯一の逃げ場があるとすれば、それは「既得権益批判」しかないのである。

評価は☆☆☆。本書の議論は非常に濃密で、しかし、目からウロコの連続であった。ううむ、、、これは、ただものではないぞ。
ついでに言えば、副題は出版社がつけたものではないかな。あまり著者の主旨を反映してないような(苦笑)

著者は、このような状態について、あえて「新しいルール」の提案を行う。それが、サブカルでありジモトである。
正直、この提案に関しては、まだよく私は理解できていない。
ただし、少なくとも、新しいルールが必要なことは、構造としてちゃんと理解できる。
「お前のものを俺にもよこせ」と皆が主張しあう世の中になっていることを、まず理解しなくてはいけないし、そのことについて自覚的であるべきだろうと思う。

著者は、苦しいときにはまず「苦しい」というべきであって、「お前のものをよこせ」という理論ではないはずだ、と指摘する。心うたれる言葉であった。