Single40'S diary

「40過ぎて独身で」の作者が、あっというまに50代を迎えたブログ

宇宙消失

「宇宙消失」グレッグ・イーガン

最近は酒を飲むとすぐに眠くなってしまうという、明らかな老化現象が起きている。
みうらじゅんいわく、こういうのを「老いるショック」というらしい。
ぎっくり腰も五十肩も老いるショックだ。
私は、爺ショックかと思ったが。カシオさん、ごめんなさい(苦笑)

そんなわけで、読書量が落ちているんだけど、それでも少しづつ読むものは常にある。
スマホとかでネットを見るだけじゃあ、なんだか人生を損している気がするからである。
じゃあ小説を読めばトクなのか?というと、まあ疑問ですけどねえ。
いずれは死んでしまうわけだし、とにかく楽しめるうちは楽しむべきだろうと考える。
ネットは便利だけど、楽しむというベクトルで考えると、小説よりはちょいと落ちる気がするんだな。
テレビよりはマシかもしれないけど。

そんなわけで、SFである。
SFは好きなのだが、ちょっとご無沙汰していると、もう最近の流れについていけない。
ついていけないから困るかというと、ぜんぜん困らない(笑)
まだ未読の名作があまたあるからだ。
死ぬまでに、そんな名作を読んでおこうと考えて、この本も読んだわけである。
読まずに死ねるか(by内藤陳)

舞台はちょいと未来の地球。
そのころ、太陽系は何者かによってバブルというもので包み込まれており、星空を失っていた。(惑星だけは見える)
なぜバブルが空を覆っているかは、誰も知らない。
主人公のニックは元警官で、今は退職して私立探偵を開業している。
そのニックに、ローザなる女性を探してほしいという依頼が来る。
ローザは遺伝性ではないが障害者で、自分では生活できないので病院で暮らしていた。
そのローザが行方不明になってしまったのだ。
病室は完全に電子錠でロックされていた上に、出入り口には監視員もいる。抜け出せるはずがないのである。
ところが、調査してみると、どういう手段か不明なのだが、ローザは過去にも病室から抜け出したことがあると判明する。
ニックはローザが死体に成りすまして(何者かに死体に偽装されて)航空機で海外に連れて行かれたと仮設を立てて調査してみると、それらしいケースを発見。
オーストラリアの片隅に出来た新香港に赴く。
ここでニックは正体不明の組織「アンサンブル」に拉致され、忠誠モッドを植え付けられる。
この時代の人間は、自分自身の脳と神経系をコントロールするために、モッドというナノマシンを自分の体内に埋め込むのが一般的なのである。
モッドは、自律神経をコントロールして心を冷静に保ったり、血圧や心拍数をコントロールしたりする。
ニックは、かつて警官になっていた時代に、心を冷静に保つ強化モッドを使用していた。そのため、妻の死に対して悲しむことができなかった。
強化状態を解除すれば自分の悲しみがどうなるかわからないと感じたニックは、モッドの機能を解除しないで別のモッドを利用し続ける道を選んでいる。
ニックがアンサンブルによって注入された忠誠モッドは、ニックが心からアンサンブルに対して忠誠を誓うようにするモッドであった。
ニックは忠誠モッドの働きによって、私立探偵をやめてアンサンブルの警備員になる。その仕事に大きな満足を感じるようになるからである。
アンサンブルは、人間が量子の拡散状態を収縮させるのに、任意の結果に収縮させる実験を行っていた。そのためのモッドを開発していたのである。
実験は成功した。いかに「有り得そうもない」ことでも、ありえる未来はあるわけで、それを自在に選択できるようになるわけである。
そのとき、ニックに対して劉という研究員が近づき、俺たち忠誠モッドをインストールされている人間がアンサンブルを支配するべきだと説く。
なぜなら、忠誠モッドを使っている以上、アンサンブルに対して謀反をすることはできない。
アンサンブル上層部の人間は忠誠モッドを使っていないから、彼らは私利私欲のためにアンサンブルを利用している存在であるという。
こうして、ニックは「真のアンサンブル」のために、収縮モッドを盗み出すことに成功する。
ニックは、自分の望ましい状態を収縮させることができるようになったが、劉がアンサンブルをコピーしてウィルスに埋め込み、ばらまくという。
ニックは、劉の行為を阻止しようとして迷う。
たくさんの可能性を観察という行為でなくしてしまうのは、正しいことなのか。
ニックは、バブルが人間の収縮能力=観察によって多数のあり得た未来を一つに収縮させてしまう、を防ぐために何者かが設置したと悟る。
それは無数の宇宙の可能性の死だからである。
ニック自身が拡散して、ウィルスがばらまかれた世界がやってきて、そこでは世界は無数に拡散してしまい、とてつもないことになっているのだが。。。

 

量子力学ネタのSFとして、古典的な名作である。
問題は、本書が書かれたのが1992年だということなのである。

シュレーディンガーの猫」や「シュテルン=ゲルラッハの実験」によって、量子力学の不思議な性質はこの時代、すでに明らかになってきていた。
どうやら、世界はミクロのレベルでは「客観的に」成立してはいないらしいのだ。
人間が「観察」することで、初めて量子の位置が決まる。
昔からある「誰もいない森で落ち葉が落ちた時、それは落ち葉が落ちたといえるのか」について、量子力学は「言えない」という、とんでもない結論を出したのである。
それまでの物理学では、人間がいようといまいと、事物は「客観的に」存在するものであった。
そして、それから20年以上が経過している。
量子力学の世界はさらにエラいことになってきており、いわゆる「量子もつれ」による情報の伝達がなぜか光速を超えてしまったり、そうすると相対論と矛盾してしまったり、矛盾を解消しようとして多世界解釈だの「時間は存在しない」だの、どえらいことになっている。
私見によれば、イーガンのSF的着想の面白さを現実世界が(というか、量子力学の進化が)追い越してしまったようだ。
これはハードSFという分野では避けられないことで、古くはジュール・ベルヌの昔から、すでに小説的発想が現実に追い抜かれる事態が起こっている。
もちろん、そんなことが起こったからといって、作品の価値が減ずるわけではないが、若干興が削がれるのも事実かと思う。
そんなわけで、評価は☆あたりが妥当であろうか。

でも、久しぶりに読むと、やっぱりSFはいいもんだなあ。
なんというか、ふだん使わない脳の部分が刺激されるような。
ほんとうに面白い話は、つまりは作り話、もっといえばホラだと思うわけである。
いかにうまくホラを吹けるか。
まさに小説の原点じゃないかと思う次第。
そう、考えてみれば浦島太郎もかぐや姫も、ホラなんですからね。