「前夜 奥右筆外伝」上田秀人。
上田秀人の「奥右筆秘帖」シリーズは抜群に面白くて、新刊がでるたびに貪るように買って読んだものである。
普通の時代劇ファンでもなかなか知らない人も多いであろう「奥右筆」という幕府の官僚を中心に据えて、渦巻く陰謀と主人公のさわやかな活躍は、今は失われた昭和の良質な時代劇を見るようで、実に楽しいものであった。
当時、独立はしたものの(他にやりようがなかったので、独立せざるを得なかった)大して儲かりもしない仕事をせざるをえなかった時期だったが、奥右筆秘帖シリーズがわずかな心の慰めになっていた。あのとき、この読書と愛猫がいなかったら、ほんとに精神がどうなったかわからない。
奥右筆秘帖シリーズはきちんと十二巻で完結したのだが、その登場人物たちは作者の中で生きていたらしく、読み切りの形で「前夜」つまり物語が始まる前のエピソードを集めた短編集が本書である。
奥右筆秘帖シリーズを読んだ読者なら、もう嬉しくてたまらない企画である。
評価はもちろん☆☆。
ま、熱烈な読者であったわけなので、当然。
改めて思ったのだが、江戸時代の武士の仕官もほんとに大変なのである。
なにしろ、御役についていなければ罰金まで(税金ですが)課せられるのだそうだ。
武士は無役ではいかん、というのである。
しかし、長らく戦は絶えてない。よって、役を得ると言っても、数少ない募集には応募が殺到するに決まっている。
仕方がないので賄賂を使ってなんとか潜り込もうとするのだが、そもそも無役の旗本に大した賄賂が準備できるわけがない。金はないのだ。
よって、早朝から上役へご挨拶のため罷り越す武士どもで、屋敷前がごったがえす。
面談で己を売り込むほかないのだが、もちろん、可能性はなきに等しい。哀れな就職活動である。
今ももちろん就職はたいへんであるけれど、江戸時代の武士に比べれば、まだ楽なほうであろう。職種を問わなければ、仕事はなくはないだろうと思う(とんでもないブラックばかりになるだろうが)
しかし、江戸時代は、そもそも仕事がないのだ。
そこで頭角をあらわして出世するのは、なまなかではない。必然的に敵もつくろうというものである。
昭和、平成、令和と生きてきた私であるが、やっぱり人生は平穏無事に、そこそこ豊かに暮らせるのが一番良いと思う。
私の友人知人には、実業の世界で華々しい成功を遂げた人が結構多いと思うのだが、羨ましくはあるけど、しかし、代わりたいと思わない。彼らがどれだけ大変な苦労をしたか、その片鱗だけでも知っているからである。
今や都会の片隅で小さくなって生きている自分でありますが、そのぶん、気楽でもある。こんなものななんじゃないかと思う次第でありますなあ。