Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

もう過去はいらない

「もう過去はいらない」ダニエル・フリードマン

 

以前に読んだ「もう年はとれない」の続編。引退した88歳の元刑事、バック・シャッツが主人公である。

シャッツのもとに、元怪盗のイライジャが訪ねてくる。自分を保護してほしいというのだ。イライジャはシャッツと同じユダヤ人で、シャッツより10歳年下の78歳である。ナチスアウシュビッツの生き残りだった。アウシュビッツで看守を買収して脱出に成功したイライジャは、国家の法律はユダヤ人を保護してはくれなかった、だから法律など守らないという信念の持ち主で、あちこちで巨額の盗み、強盗を働いていた。

シャッツとイライジャには因縁がある。

シャッツが若かりし刑事だった頃、イライジャが銀行強盗を企てた。当時、人種差別のために法外な安い賃金で働かされる黒人がストを起こしたことがあり、そのストと警官隊がぶつかって暴動が発生、発砲事件が起こる。そのドサクサにまぎれて、銀行の金庫から17万ドルが忽然と消えた事件だった。シャッツは事前に盗みの情報を掴んでいたが、イライジャの犯行阻止に失敗する。イライジャは同じユダヤ人の警官や支店長を買収しており、わざとスト隊と警官をぶつからせて騒動を起こし、そのスキに買収した支店長に金庫を開けさせていた。中身を運び出した後で、支店長は警報ベルを押して金庫はロックされて、結果として中身だけが忽然と消えた金庫が出来上がった。事件の真相が明らかになれば、黒人に続いてユダヤ人が排斥運動の対象になりかねない。黒人の次にユダヤ人が差別されていたからだ。自身がユダヤ人のシャッツは差別を危惧し、最終的に犯人不明の未解決事件で処理したことがあった。

そのイライジャがひょこりと現れて保護を願い出たので、イライジャの弁護士と古巣の現役刑事を呼び出して事情聴取のため移動する途中で、何者かに襲撃される。刑事は撃たれ、シャッツも怪我をし、イライジャは何者かに連れ去られた。

イライジャは病院から抜け出して弁護士を締め上げて、イライジャの仲間を探る。イライジャは、どうやら麻薬密売組織の倉庫を狙ったらしい。そこには、麻薬取引用の巨額の現ナマがあった。倉庫は同時に複数が襲われて、中身は空っぽになった。当然ながら、警察には届け出はない。

シャッツは、何が起こったかを調べた後で、なぜイライジャが自分に連絡をとってきたかを理解した。警察が出てくる必要があった。すべてはイライジャの自作自演だといえた。シャッツは、イライジャがどこにいるか、気がついた。それは、今は介護付き施設で暮らす自分の、売却された元自宅だった。

シャッツとイライジャは、そこで再び対決する。しかし、シャッツはそこに行くにも歩行器を持っていかないと歩けないのだった。そんなシャッツに、イライジャはある提案をする。。。

 

前に読んだ「もう年はとれない」がまあまあ面白かったので、続編を読んでみたわけだが、さらにおもしろくなっている。前作を超えたのではないか。日々、衰えていく身体(アタマもだ)とそこに閉じ込められている自分、しかし心だけは変わらないのだな。自分も世間ではすでに老齢の仲間入りであるので、その気持はよくわかる。

評価は☆☆。

 

大学時代に、ワイマール体制からナチスに移行する過程については、よく取り上げられて講義の対象になった。文化的には、ウィーンの文筆家カール・クラウスの雑誌「ファッケル」の記事などもゼミで読んだ。マスコミという権力への批判、ユダヤ人のインテリたちの関心が文化芸術方面に集中する反面、貧しい労働者たちは反ユダヤ主義へと傾いていく。今の世の中がおかしいのはユダヤ人が裏で支配しているからだ、という陰謀論である。(それから80年が経って、今なお、こういう陰謀論を信じている人々がいるのは驚きである)これらが結びついて、ついにナチスドイツは合法的に権力を握り、ニュルンベルク法が制定される。ユダヤ人を「合法的に」差別できるようになったわけだ。その結果が何を起こしたか、誰でも知っている。戦後のドイツは、ナチスは酷いことをしましたといって謝罪したが、それはスリカエだ。ほんとうに酷いことをしたのは、ドイツ人なのである。ナチスはその代表者に過ぎない。

問題は、それが「合法的」であったことだ。では、法とはいったい何なのか?ここで、自然法論的にいえば、ニュルンベルク法自然法に背くから法律ではない、という話になるが、しかし自然法に背くかどうかを誰が決めるのかという問題は残り(どうせ権力者が決めるのだが、あるいは誰も決められない)実定法的に言えば「悪法も法なり」ということで、つまり法律は人々の幸福とは必ずしも関係がない、過去の判例の積み重ね云々と理屈をこねてはいるが突き詰めて言えば権力の装置であるという話になる。そうなると、本書のイライジャのごとく、そんなものは守らないという話につながってしまうのである。

このへんの議論は今でも実は決着がついたとは言い難く、いまだに法哲学上の一大問題として残っている。最後は個人の信条の問題であるように見えるだろうが、それが法となれば個人の信条を超えて社会のあり方に係るから、そういうポストモダン的な「人それぞれ」という思考停止文で終わらせるわけにはいかないのだ。

 

本書を読んでいて、はるか昔に、大学で学んだそんな話を思い出した。

歳をとるということは、余計な感想を持つものでもあるようだ。