Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

黒書院の六兵衛

「黒書院の六兵衛」浅田次郎

浅田次郎は「何もしなかった人」を書くのがうまい。代表例は「鉄道員」である。
あれも、淡々と鉄道員の最後の務めを描いたのみの作品であった。
本書も、その系譜に連なる作品であると思う。

ときは幕末、主人公は尾張藩の下級家臣、加倉井である。
江戸城無血開城が決まり、まず物見ということで場内に派遣される。
無血とは言っても、本当に幕府が約束を守るとは限らない。約束を翻して、徹底抗戦もあり得る。
そういや、どっかの国も約束を翻すのが得意なようであるが。
で、そんなときは先遣隊がまっさきに血祭りにあげられるわけで、下級家臣の加倉井ならば手頃だという話なのである。
仕方なく江戸城にでかけた加倉井であるが、おおむね、場内は平穏のようであった。
ところが、一人だけ、的矢六兵衛なる御書院番が居座ったまま、動こうともしない。
食事の塩むすびだけをくらい、厠にいくときを除いて、あとは一日端座している。
その六兵衛だが、実は的矢家は借財で身動きができなくなり、誰かに旗本株を売ったことがわかった。
つまり、端座している六兵衛は「もとの六兵衛」ではなくて、金で侍の地位を買った「金上げ侍」なのである。
その六兵衛は、何を聞かれても沈黙したままで、一切応答しない。ただ端座している。
これはおかしい。
ところが、どういうわけか勝海舟西郷隆盛も「力づくはいかん」という。強制排除もできないのである。
一方で、江戸城引き渡しの日はせまる。
加倉井は、六兵衛の正体を探索しつつ、一方でなんとか六兵衛に下城してもらうべく知恵を絞る。。。


というわけで、六兵衛自身は「何もしない」のである。
加倉井を筆頭に、周囲の人間があれやこれや忖度し、知恵を絞って六兵衛の正体を探り、かつ下城してもらおうとする。
そこに幕末の江戸城の風景が重なり、なんとも可笑しい。
評価は☆。
あいかわらず、浅田次郎はうまいもんだねえ。

江戸幕府を滅ぼしたものは、武士の対面を保つための借金であった。
コメを受け取るだけの侍は、諸物価の高騰に対抗するだけの策を持たなかった。
その上、おそらく世界史上で非常に稀なことに、この支配階級は金銭を「汚いもの」とみなす、という奇妙な習性があった。
金がなんじゃ、というわけである。
江戸の市民は、そういう侍を「花は桜木、人は武士」と褒めそやした。
やせ我慢の美学がここに生まれたのである。
武士とは何かといえば、それは「やせ我慢を美徳にする人種」である。
やせ我慢なんぞバカバカしい、と欲望に忠実なのが「市民」であろう。
江戸時代で武士の世は終わった。
江戸から敗戦までが移行の時期であり、戦後は「市民」が権力の掌握を終えた時期である。
そういう歴史観に立つと、実は戦前と戦後に断絶はない。戦前の完成形が戦後である。市民が支配する世の中では、欲望に忠実なのが正しいことであり、やせ我慢するのはバカのすることになった。
そうしたら、こういう世の中になった。
あとは好き嫌いの問題だろうな、と思う次第。

やせ我慢は、それはそれで嫌いではない。とはいえ、度が過ぎるとちと辛いか、というあたりが、今の私の率直な感想ですなあ。