Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

叛旗は胸にありて

「叛旗は胸にありて」犬飼六岐。

物語は、幕末に、但馬の湯村の古刹で、そこの和尚が志士らしき客人と、客人を迎えに来た温泉旅館の息子に物語る、という形式で語られる。
その和尚が語るのは、かの有名な「慶安の変由比正雪の変なのであった。

慶安時代、徳川幕府は将来の禍根を絶つため、情け容赦なく外様藩のとりつぶし、削減を進める。
その結果、浪人が巷間にあふれる。
主人公、熊谷三郎兵衛も、そんな浪人の一人である。長屋住まいで、傘張りの内職をして糊口をしのいでいる。
人が良い三郎兵衛は長屋の者から「熊さん」と言われている。熊谷さま、がだんだんつづめられて「熊さん」になってしまった。
三郎兵衛は、それも自分の貧窮ゆえであろうと、納得してしまうような男なのである。

その三郎兵衛は、ある日、同じ長屋に住む金井に誘われて、張孔堂という塾の集まりに顔を出す。
張孔堂という名前は支那の大軍師、張良孔明にあやかったというから、ずいぶん不遜なものであるが、肝心の師範である由比の姿は見えない。
わけのわからないまま、熊谷は丸橋忠弥と名乗る好漢に酒を馳走になり眠り込んでしまう。
これをきっかけに、熊谷は張孔堂に通い始める。

張孔堂に集う面々は、いずれも浪人のようであった。
そして、師範代と名のる高弟たちは、浪人をなんとかせねばならん、と意見が一致している。
熊谷は、とにかく足が速いというので、高弟の仲間に入れられた。なんのことはない、伝令要員というわけである。

その張孔堂に、紀州頼宣公から声がかかる。
なんと、張孔堂に決起せよ、というのである。おまけに、大阪、京、駿府、江戸に軍資金と武器まで準備された。
この密命を巡って、張孔堂は急進派と穏健派で議論が割れる。
急進派は、もちろん紀州頼宣の密命に従い、決起すべしという主戦論である。
穏健派は、そのようなことをしても、成功確率は低い、それよりも幕府に粘り強く意見具申し、浪人の窮状を聞き届けてもらうようにしようという。
高弟たちは最後に多数決をとるが、わずかに、急進派が上回る。

かくて、着々と決起の準備が進められていく。
張孔堂は、紀州藩の命令と称して、新規召し抱えがあると言って浪人者を集める。
しかし、いくら浪人が集まっても、決起の成功は難しい。
そこで考えられた策は、江戸城の火薬庫の番人と結託してこれに放火、同時に江戸市中に火を放ち、その混乱に乗じて寡兵でもって江戸を制圧しようというものであった。
京、大阪、駿府も同様である。

熊谷は、まったく政治的にはノンポリだった男であるが、はじめてここで懊悩する。
世直しのためと称して、幾万の罪のない江戸市民を火災に巻き込んでよいものか?
それは、浪人とは違う、新たな不幸な人々を生み出すことにしかならないのではないか?
悩んだ挙句に熊谷は「決起すべきではない」と決める。
同じように、決起に批判的だった丸橋、岡村とともに、熊谷は、決起を中止させる策動を行う。
その策動とは。。。

かの有名な「慶安の変」に題材をとった時代小説の快作である。
ことに、主人公の熊谷の小市民ぶりが微笑ましいが、その熊谷が小市民ならではの視点から、決起に批判的な態度に変わっていくところが面白い。
張孔堂に師範がいない理由とか、紀州公が己の天下取りのために張孔堂を利用しようとするところ、さらに事が露見したときの保身ぶりなど、政治の世界の残酷さもよく表している。
たいへん面白い。評価は☆☆。

巻末の解説では、浪人を「派遣切り」にあった人々に比して論じている。
なるほど、確かに浪人たちの置かれた「なんのセーフティネットもなく、訴えるべき所管もなく、ただ目をふさいでいるだけ」の存在という点は、相似である。
いってみれば、社会の歪みが生み出した、ということである。

しかし、今の人々は、江戸時代の浪人とは、また違うことも指摘しなければいけない。
浪人は、主君がいない(禄は貰えない)のに、身分は「武士」であった。
本作中にも熊谷が独白するが、いくら傘張りがうまくても、それは「傘張りのうまい浪人」でしかない。職人にはなれない。身分制度があるからである。
武士と言えば、百姓町人を搾取した大悪人くらいに思っている人も多いが、零落しても武士である。
幕末になれば、苦しんだ武士が身分を売ることがなかば公認になっていくが、この時代ではない。
浪人になれば、武士は苦しいばかりである。その武士が事件を起こせば、なんと「町奉行所」で裁かれる。
町人しか裁かない町奉行所で裁かれるのは、浪人には幕府は関与しないという表明であり、まさに「見捨てられた」
存在であった。

現在の派遣切りにあった人は、優れた技術やユニークなテクニックを持っていれば、正社員の道もあるであろうし、さらに独立開業だってあり得る。
身分制度ではないのである。

派遣切りの問題点は、それ自体ではなく、その「身分」が固定されてしまうのではないか、という懸念がさらにあるわけである。
そうなれば、これは大きな問題だからだ。民主主義の根幹にかかわる問題であろう。

とはいえ、昨今の日本を見ていると、それでも仕方がないのかもしれないと思うようになった。
弱者に対する配慮は、そもそも理詰めや計算でなく、日本人であれば「同胞を見捨てるわけにはいかない」という民族的な連帯に由来するだろうと思う。
自分さえよければよい、と思えば、連帯はそもそも不要である。
たしかに、そういう世の中かもしれないなあ、と思う。それが、世の中の進化ということであろうか。
「敗戦国が何をいってるか」と隣国がすごむくらいであるが、その隣国を「さよう、しかり」とたたえる日本人も多いわけで、その隣国をたたえる人々が人権派と呼ばれたりする。
わけのわからない世の中であることは確かであろうねえ。