Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

死の壁

死の壁養老孟司

養老さんの本がつづく。なんでだかわからないが、この人の思想は私の心を動かす。どの本を読んでも、同じことが書いてある。養老節である。その養老節に、私は耳を傾ける。

養老氏は、死には3種があると説く。
「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」である。

「一人称の死」は、自分自身の死である。この死は「ない死」だと養老氏は言う。だって、死んだら、当人は当人の死体解剖もできないではないか?
この死は怖くないのだという。だって、我々は毎晩眠りにつくではないか、と。

私はパニック障害になったときに、夜が怖かった。睡眠が怖かった。そのまま死を迎えるのではないか?という生への執着からである。生きることはつらいといいつつ、死はやはり怖ろしい。怖ろしいと思うものは怖ろしいので、いかんともしがたい。この件、留保。

「二人称の死」は、親しい友人や親兄弟の死である。この死は「なかなか受け入れられない」と養老氏は言う。サルでも、我が子の死は受け入れられない。そもそも、死と生の境目はどこか?法律や科学で死を決めても、それが本当の死とは限らないと、解剖学者らしい視点でいう。
従って、その死は、おそらく「世間の死」と、自分にとっての死の折り合いにあるだろう。

「三人称の死」は、赤の他人の死である。警察署の前にある「本日の交通事故死1名」だという。そこには数字しかない。それを見て、交通事故に対する注意を喚起するべきなら、事故現場の生々しい写真でも貼れば良い。「1名」などという死があるか、と。

そして、死に対する「感覚のなさ」を、エリートの無責任として激しく叱責する。道路公団総裁が「それを言うと死人が出るから言えません」などと答弁した。考えてもみろ、橋をつくりトンネルを掘り道路を造れば、必ず死者が出ているはずだ、と。その責任に無自覚すぎるのだと。
自動車社会になって、年間1万人の死者が出る、経団連会長だかなんだか知らないが、その責任を思ったことがあるか?それでも、社会では誰かが決めなきゃならない、それが責任を負うということだと。

巻末ちかく、養老氏自身の回想がある。
氏は、幼い頃、病で父親を亡くしていらっしゃる。養老氏は挨拶が苦手なのだが、地下鉄車内でその理由を考えていたとき、父の最後に「挨拶しなさい」と言われてできなかった、父がそんな養老氏を見て笑いかけてから亡くなったそうである。養老氏は、心の中で「父に最後の挨拶ができなかった」ことをずっと思っていた、それは父親の死を認めたくないからだと気付いて、地下鉄車内で思わず涙を流したそうである。少年時代の記憶が、老境を迎えた時点で、はじめて意味をもって蘇るのである。
このくだりを読みつつ、JR社内で私も涙を流しそうになり、大いに慌てた。

同時に、たとえば会社内で相応の地位にいるはずの自分の「無責任」を思った。道路公団総裁や経団連会長を笑えぬ、俺も同類ではないか、と。
つらくても矛盾を背負わねばならん、そのための存在ではないかと養老氏の叱責が聞こえたような気がした。なにを自分一人のことでうじうじと悩んでいるのだ、お前にとってお前の死は一番問題外ではないか、と。一人称の死は、三人称の死以下のはずである、ということであろう。
ここ数日のふがいない自分の有様を思い、誠に申し訳なく思う。

とてもとても、この本の評価などできはしません。そんなことはできません。

正直いって、自分の死が怖くなくなったということはないのです。私は、再三再四表明しているとおりの「腰抜け」なのですから。。。
しかし、そんな筋金入りの腰抜けでも、わずかの勇気を奮い起こすことができた本だと報告させていただきます。