Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

臓器移植、我せずされず

「臓器移植、我せずされず」池田清彦

病気腎移植問題が持ち上がっているので、この本を思い出して再読。なぜかというに、「病気腎」を移植することの是非の以前に、そもそも「移植医療」に関する賛否があるはずだ、と思ったからである。

著者は、タイトル通り、移植医療に反対の立場をとる。その理由をロジカルに説明している。
1)死の基準を動かす(脳死)こと自体が、そもそも移植を前提としており、本末転倒。長い歴史に培われた「心臓死」という「社会的死の基準」を今さら変える必然はない。科学は宗教(神)の上位の存在ではない。
2)誰でもドナーになれるが、お金がある人しかレシピエントにはなれない。アンバランスであり不公平である。
3)資本主義のルールでは、需要があれば供給が増えて価格が下がらなければならないが、移植医療は絶対そのようにならないので、医療サービスという「商品」として欠陥品である。
4)もしも自己の意志によって臓器を提供する自由を認めるならば、それを値段をつけて売る自由がないのはおかしい。
5)もしも自己の意志によって臓器を提供する自由を認めるならば、誰に移植するかという意志を認めない自由はおかしい(例えば、白人だけとか、お金持ちだけとか)
6)移植医療自体が欠陥医療であり、こんな医療のために税金を使うのはムダである。
7)そもそも肉体が自己の所有物であるという証拠はない。
8)人間は、社会の基準によっては命を奪われる存在である。我々は、年間1万人が亡くなるから自動車を廃止するとは言わないし、日本人は平気で人工妊娠中絶を行っている。

本書の主張はラディカルと見えるかもしれないが、そのロジックは平明だ。
評価は☆☆☆。
最上の評価をする。読んで損はない。特に「ドナー登録してもいい」という善意のある人は、一読しておくべきではないかと思う。。。

本書にもあるが、私は移植医療が存在することで、私の最期が浅ましくなることが、一番畏れることである。

たとえば、私が何か肝臓か心臓か、病気で余命1年と宣告されたとする。ただし、私は「移植すれば助かります」と言われたとしよう。
私は愚かで、自分の生に執着する浅ましい人間であるから、自分ではドナーになる気なんかなかったくせに、きっとレシピエント登録をする。早く、自分に臓器を提供する人が現れないかと願う。つまり。私は、自分の命が助かりたいから、他人の不幸を願うのである。
そうして、いつも需要と供給の関係は、需要オーバーなわけで、私はいよいよ死なねばならなくなる。ああ、誰も結局死ななかったから俺は死なねばならんのだ、と思って、死に至る最期の月日を過ごす。それが、私のこの世での最期に考えたことになるだろう。
いくら私が阿呆で愚かで、右翼だ戦争主義者だ負け犬♂だと言われる人間だとしたところで(苦笑)それではあまりに情けない最期ではないか。
だけど、この移植医療というものがある限り、私がそのようになる可能性は大なのだ。

強い人は「私は移植を受けないし、提供もしない」と宣言すれば良い。しかし、私のような意志薄弱で卑怯な人間は困る。
移植医療というものが無ければ、こんな思いをすることもあるまいに、凡夫はかえって不幸というものではないか。いかにしたところで、人間は最期は死を免れないのだから、せめて浅ましい思いがなく死ねるようにして欲しい。それぐらい、私にだって権利があるはずだ。
「善意で移植医療をする人」は、その意味で私にとっては「迷惑」である。一部の仏教徒の「自分は移植を受けないが、他人に施すのは良い」という考えも、同様に迷惑である。

そのときに成ればどうなるか分からぬからこそ、私はそのように言うのである。弱い人間としては、逃げ道を塞いでおいて欲しいのだよねえ(苦笑)。

巻末に養老氏の「移植消極肯定」の理由が「私は他人に冷淡なので」という理由は、まさに頷けるものだ。移植を肯定することは、実は冷たいことなのである。