Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

クラシック批評こてんぱん

「クラシック批評こてんぱん」鈴木淳史

この本は、クラシック音楽の批評、じゃないのだ。
そうでじゃなくて「クラシック音楽の批評(または批評家)の批評」である。
つまり、メタ批評、とでもいうか。

クラシック音楽の批評って、妙におかしいのである。たとえば、東欧出身の指揮者がドボルザークをやれば必ず「望郷の歌」「民族の血」とやる。ドイツの指揮者がブラームスをやれば「伝統的」。ウィーンだと必ず「典雅」。んなわけねーだろ、と思っていた(笑)

で、鈴木氏は、このような実例をあげつつ、それこそ批評文をこてんぱんに斬る。抱腹絶倒、だいたいクラシック音楽のレコードを買ってライナーノーツをじっくり読むタイプの人なら吹き出すのではないか。

この書の白眉は、本人が「青臭いがあえて書き改めなかった」とした終章にある。
なぜ、このような思考停止的な批評文があふれてしまうか?という原因に、氏は「日本には、自分と他人の区別がない、無思想だからだ」と書く。このアプローチは、養老氏「無思想の発見」と全く同じである。
西洋音楽を聞くことは、基本的に西洋文化を受容することになるはずである。
我々は日本人だ。西洋文化のなかにはない。そこで、「日本人が西洋文化を受容するという自意識」がそもそも評論の出発点であるべきだろう。ところが、吉田秀和氏などを除いて、この点につき、多くの音楽評論家が驚くほど無自覚だという指摘である。むしろ、宇野功芳氏のように「徹底的に感覚的に」つまりは、日本人であるという枠に確信犯的にドップリとつかって、日本人として評論してしまうほうが主流である、と。このような鑑賞法は、たとえば歌舞伎や能の鑑賞と変わらない、と。

氏は例をあげて指摘する。西洋人は神の前に「個人」として対するが、日本人は「講」という集団であり、それは「実利」を兼ねている。無思想の実利集団=日本人には批評精神などない、という。
しからば、批評精神とは何であるか?
その例として、福田和也氏の著作から、以下のような話を引く。
「ある東海地方の高僧が、日華事変の慰問に行く。そして、高僧はこう言う。『人間は、もともとほっておいても必ず死ぬ。だから、何人殺したって罪になんぞなりゃしません。安心しなさい』兵隊達の中から、微妙な笑い声が起こる。それは、単に安心しただけではない、敵にとっても自分が殺されても罪にならぬ、という相対的なことに気付かせた」これが評論のあるべき姿だろうと言う。
対象を、あくまで対象として、自己を自己として冷厳に見つめる態度だろう。

本書を読みつつ、自分自身にもまったく批評能力がないことに気付いて、かなりがっかりした。私は感覚的でドップリのほうに間違いない。
あらためて、私が批評家にならなかったのは正解だったとも思う(苦笑)。無批判な日本人だから?そうかもしれない。仕方がない、そういう意識が欠落した能天気な人間、それが私である。

著者の「批評家を批評する」という試みから「批評精神」一般を導く、というのは、論理としては正当であることは充分に認めなくてはならないだろうなぁ。ああ、これも無批判な受容ということになるのかな?ううむ、、、やむをえんな。。。

評価は☆☆。充分に面白いし、知的な挑戦も多数ある。なかなか、素晴らしい本だと思う。
クラシック音楽が好きな方に、こんな毒がある書も素敵じゃないかと思うのだ。