Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

閉ざされた言語空間

「閉ざされた言語空間」江藤淳

高名な書物であるが、文庫を見つけたので読んだ。生来の貧乏性で、ハードカバーにはなかなか手が伸びないのである。

本書は、大東亜戦争において、GHQが行った検閲がいかに準備され、またどのように実行されたかを、米側の一次史料に基づいて詳細に記述したものだ。GHQが仕掛けた壮大な「WGIPウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム;戦争をしてすいませんと罪の意識を持たせるための宣伝計画)」の全容をほぼ掴むことができる。

米国憲法は修正条項によって、思想・信条の自由を定めている。日本政府がポツダム宣言を受諾して、連合国に降伏した時点で、日本は連合国最高指令(米国)の支配を受け入れることになった。そこで問題が生じるのであるが、連合国司令部(米国)が日本において検閲を行うことは、彼らの国にとっては「憲法違反」であるということである。米国は、米国の政治下にある国において、米国憲法違反の政治を行うことについて認めているわけではない。
従って、検閲の最大の力点として「検閲を行っているということ自体を秘密にするべく検閲する」ことになった。
たとえば、戦前においては、書物・新聞の検閲は発禁になるケースは稀であって、だいたい「○○○○主義」みたいな「伏せ字」が使われていた。つまり、心ある人が読めば「マルクス主義」てな具合に、伏せ字に自分で字を当てて読むことが可能であった。ところが、GHQの検閲は、このような検閲ではない。伏せ字があれば、検閲自体が暴露されてしまう。そこで、差し戻しをする。つまり、発表したくば、全文を書き直すしかないのである。
このような検閲は昭和20年の暮れから実行されるわけである。言葉に関しても、徹底的な言語封鎖が行われた。「大東亜戦争」は禁止して、すべて太平洋戦争と言い換えられた。連合国に対する批判はすべて禁止。東京裁判は、検察側主張のみを詳細に報道させ、弁護側主張については禁止。皇室に関する用語の言い換え(御製→お歌、東宮→皇太子、など)。ラジオ放送「真相はこうだ!」を放送し、「戦争指導部のために国民は苦しむ」という考え方を宣伝した。そうすれば、日本国民のパワーが外に向かわず、自分たちの支配層に向くだろうという目的であった。戦争は、誰が考えても国家と国家の戦いであるが、それを指導者と国民の戦いだというふうに論理をすり替えるのが狙いだった。

私が注目したのは、このときから「現代かな使い」「当用漢字表」の使用が厳しく命ぜられたことである。これは、おそらく「文化の断絶」が狙いだろう。そのように教育を行っていけば、戦前戦中の文書をまともに読み書きできる者は激減するだろうし、仮に読めたとしてもタダの「歴史的文書」であり、リアリティを持って読むことはできなくなるであろうから。

最終ページで、著者はついに日本のテレビ局が「自主規制」をする姿を描き出す。当初は米国から言われた検閲を、日本人自らが行い始める。それは、そのほうが「良識」だからであり、マスコミに携わるものは一般大衆よりも高い見識があるから、良識に沿わねばならんという考えが染みついたためであろう。
さすが米国、見事な手際ではないかな。

評価は、この労作にして名著であることに敬意を表して☆☆。
三つ星といきたいところだけど、前半の準備編は正直読んでいても面白くはない。史料としての価値は高いわけで、重要だけどつまらない(なんたる言いぐさか!すいません)からだ。
後半は、ぐいぐいと引き込まれます。綿密な検証による指摘は鋭く「ああ、そうか。。。」を連発。

ついでに言えば。
インターネットが登場して「ネット右翼」がはびこっているという言説があるけど。なぜそうなったか?を考えると、実はただ1点「ネットには検閲がない」からでしょうな。いや、このヤフーブログにも検閲
はあるんですけど、いわゆるマスコミでやっている「自主規制」がないわけで。
今まで、封じていたから、反動があるわけでしょう。
では、その「反動」がなくなったらどうなるか?
いや、意外と冷静になっちゃうんだろうな、と思ったりするんですな。そう一直線にはいかないだろう、その程度には信用して大丈夫じゃないか、とね。