Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

靖国問題(3)

(靖国問題 高橋哲哉 続き)

私「さて老師。次は『宗教の問題』です。いわゆる、憲法政教分離規定についてですが」
老「まず、基本的に政教分離は、近代国家にとっては当然の理なのじゃ。いかに保守反動でも『日本は祭政一致こそ国体であるので、卑弥呼の昔に返せ』とは言わぬであろうがの」
私「卑弥呼ですか(笑)しかし、フェミニストは喜ぶかもしれません」
老「こりゃ、話をややこしくするな」
私「はは、失礼しました。しかし、すると、著書の指摘にあるように『違憲判決はあるが合憲判決はひとつもない』のは問題になりますよね?」
老「(笑)そんなもの、なくて当たり前ではないか」
私「は?!どういうことでしょうか?」
老「よいかな。裁判所に、ある行為が違法であって、自分が不当な不利益を被ったと訴える。で、相手の行為が法に反していれば、それは違法であるから、原告の勝ちじゃろ」
私「相違ございません」
老「しからば、相手の行為が不利益を与えていないとなれば、どうじゃ。じゃから、被告は法を犯してないので、よい子ですといってお褒めの言葉をもらえるとでも思うのかの?」
私「え、いや、それはなくて。。。ええと、原告の請求を棄却する、です」
老「さよう。そもそも、裁判において、違法な行為の認定はされるが、違法がなかったからといって、わざわざ合法ですなどとは言うわけがないわい。学級会とは違うじゃろ」
私「つまり、法律は基本的に『いけない』とは言うが『推奨する』ことはない、からですね」
老「当たり前じゃ。もしもそうでなければ、司法という国家権力が『望ましい行為』を決めることになるじゃろう。考えただけで気持ちが悪い」
私「すると、憲法判断を回避、という表現自体がヘンテコですね」
老「憲法判断について言えば、違憲ですとは言うても、合憲ですとは言うわけがないからの。憲法は『今週の努力目標』じゃないわい。違憲といわねば合憲じゃ。違憲でも合憲でもないワケがない、ばっかじゃなかろかルンバ♪じゃ」
私「それでは、主文で原告の請求を棄却、で話はおしまいですよね。しかし、理由のなかで『違憲である』という指摘、いわゆる傍論については、どう考えればよいのでしょう?」
老「まず基本は、各人の行為は自由であるから、法律に違反する、すなわち他人に迷惑をかけなけりゃ何をしても良いわけじゃ。で、主文は棄却、つまり、誰にも迷惑をかけていません、となったとする」
私「はあ。その行為は不法行為ではないわけですね。すると、その傍論の指摘で違憲の疑いというのは?」
老「うむ。もしも迷惑をかけたら、それは違憲だろうと思う、そういうことじゃ。他に解釈のしようがないわい。もっとも裁判官がタダの阿呆という可能性も捨てきれぬがの」
私「普通に解釈すると、小さな親切ですね。大きなお世話なのかもしれませんが」
老「受け取り方は、ま、さまざまじゃの(笑)あとは、直接の憲法判断を避ける理由には、統治行為論というものがある」
私「それは、どういうことですか」
老「難しい解釈はあるが、早い話が、裁判所の判断とはそもそも何か、ということじゃ」
私「それは、司法判断でしょ?」
老「馬鹿者。『司法さん』という人はおらぬわい。居るのは、判事だけじゃ。判事とは、そもそも何かの」
私「偉い人、ですかね?」
老「そういうことになっておる。しかれども、その実態は、ただの『試験に受かっただけのオッサン』であるぞ。なにが偉いのじゃ」
私「また、そういうことを云う」
老「じゃから、ただのオッサンが国家権力を代行するから偉いのであって、国家権力がなければただのオッサンじゃ。判事が『国家権力はいけません』と云うたなら、そやつはその瞬間にただのオッサンである。そんな奴の云うことを聞く必要があるものかのう」
私「はああ。すると、判事は、どんなに国にぼろくそ云っても、国家権力そのものを否定はできないわけですね」
老「じゃの。じゃから、対象が国家権力そのものである場合には、判事の判決もオッサンの世迷い言じゃねえか、というと危険なので、統治行為論はここまでじゃ」

私「それから、ある牧師さんが、靖国への合祀を取り消してくれ、というのを靖国側が断った、というのがあります。これはいかがでしょう?靖国による、信仰の自由への侵害ではないでしょうか」
老「わしは、実はキリシタンであるのじゃ」
私「え?!そうだったのですか」
老「うむ(ニヤニヤ)で、わしの叔父も、キリシタンじゃが、靖国に祀られておる。それでも、わしの信仰には、なんの関係もないが」
私「それは、またどうしてですか」
老「わしの信仰によれば、叔父はキリシタンであるから、死後は当然パライソに行ったはずじゃ。靖国に行ったはずがないわい」
私「しかし、霊爾簿には名前が記載されております」
老「それは、ただの文字じゃろう。キリシタンの魂が、パライソに行かず、靖国にあると考えるならば、そいつはキリシタンであるはずがないじゃろうが」
私「ああ、そうか。つまり、靖国信者以外にとっては、そもそも靖国に魂はないわけですから」
老「そうじゃ。じゃから、靖国に『合祀』されておるはずがないので、ただのメモリアル、記念碑じゃろ」
私「じゃ、問題ないじゃないですか」
老「さようじゃ。真のキリシタンたる、このワシにとって、そもそも靖国に魂があると考えること自体が理解不能じゃからの」
私「しかし。。。老師様がキリシタンのはずがない、んだけどなー」
老「。。。次の話にいこうか」

私「細かい技術論はここまでにして、なんで日本の政教分離が格別厳格なんでしょうか」
老「憲法のどこに『外国よりも厳格にする』と書いてあるのじゃ?」
私「あ、いや。。。しかし、先の大戦の反省から、ですね」
老「ならば、仮にじゃが、9条解釈を厳格にして、本当にすべての武力を捨てたならば、もう戦争はできぬわけじゃ。そうしたら、政教分離規定は必要ない、かの?」
私「ああ、それは、、、いや、諸外国は軍隊もありますが、政教分離規定もあります」
老「そうじゃ。すなわち、そもそも政教分離規定とは『信教の自由』の相補的規定なのじゃ。たとえば、高橋は本書のなかで『仮にヒトラーに子孫がいたら、その子孫は彼の追悼をするのを、国家といえども禁止できないだろう』と書いておる。見事じゃ。これぞ、政教分離じゃよ」
私「個人の信仰は、国家によって左右されてはいけないのですね」
老「そうじゃ。それが『信教の自由』じゃが、仮に某創○学○の会員でなければ国会議員になれぬとか、総理大臣になれぬとか決まったらどうじゃろ?」
私「それは、某○価○会の信仰を、国民に強制しないとも限らないですね。気持ちわるい」
老「じゃな。じゃから、国の権力も、ある特定の宗教を推奨しても禁止してもいかん。それとこれとは別、じゃ」
私「じゃあ、総理の参拝はどうですか」
老「ふむ。では、仮に、総理は参拝してはならぬ、と決めるとしよう。で、お前を熱烈な靖国信者であるとする」
私「あまり熱心ではないですが(苦笑)しかし、まあ、いいですよ」
老「で、おまえが、まかり間違って、総理になるとするのじゃ」
私「国を誤りそうで、心配です」
老「仮定の話じゃ。お前につとまるはずがないからの(苦笑)で、まあ、その場合、お前は靖国には行けなくなる」
私「あ、そうですね。。。私に、靖国信仰があるとすれば」
老「そうじゃ。総理総裁にならんと欲すれば、国のために、お前は信仰を捨てねばならなくなる。これを、国家による個人の信教の自由の侵害といわずしてなんと申すぞ」
私「そうですね。だから『それとこれとは別』ということですな」
老「そうじゃ。ごちゃまぜにしてはいかん。宗教問題と政治問題は、山かけ蕎麦のように、一緒に食うてはいかんのじゃ。蕎麦は蕎麦、山かけは山かけで食うことにしよう。それが政教分離であるじゃろう」
私「なんか、すると、靖国問題を政治問題として論じること自体が、、、」
老師はニヤニヤした。
老「そうじゃ。そのほうがよほど、憲法違反の疑いが強い、と見えるのじゃがのう(笑)」

私「そうしますと、いわゆる『政教分離規定』から考えると、私的参拝なら問題ないが、公的参拝は問題有り、という結論にみえます」
老「少なくとも、憲法をいわゆる厳格に解釈した場合に、もっともオーディナリーな理解じゃろうな」
私「それで、公的か私的か、と新聞記者がインタビューするわけですな」
老「世界では珍しい光景じゃがの。。。ま、閉じた空間では致し方ないわい」
私「と、いいますと」
老「清朝末の、アヘン戦争の前じゃ。イギリス公使が、清朝に外交文書を手交した。このままだと戦争だ、ということじゃ。その外交文書を、清朝はどうしたと思うかの?」
私「大騒ぎになったのでは?」
老「普通はそうじゃが、清朝は違ったのじゃ。イギリス公使に、こんなものは受け取れぬ、とやったのじゃ。というのも、イギリスの文書は、ちゃんと八股文ではなかったからじゃ」
私「はあ?!」
老「清朝科挙の問題は、八股文での。古典の引用、成句をいかに文章にちりばめるか、その技術が問われておった。その格式がなかったのじゃ、イギリスの文書にはな。これは『閉じた空間』が起こす悲劇じゃ」
私「ははあ。現実離れした修辞学の世界ですなあ」
老「だからさ。あまり、字句の解釈に惑溺していると、ちょっと問題があるのじゃよ」

私「それで、いわゆる『宗教の問題』を超えた部分で『文化の問題』に続くわけですね」
老「ふむ。そうじゃの。今日はこれくらいにしようではないか」
(老師の都合により、次に続く)