Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

心願成就

麻生総理が「同窓会に行くと、68歳でやたら病院に通っているのがいる。元気に働いて、税金を支払っている者もいる。私は払っている」「たらたら飲んで、食って、なんでこの人達の医療費を負担しなくてはいけないのか。私は払いたくない」と発言し、失言だとしてメディアで批判を浴びている。
ご本人は「病気の人に不快感を与えたとしたら申し訳ない」と謝罪し「予防医療、節制の大事さを訴えたかった。それなりに節制してきた人になんの報償もない。この点については考えていきたい」と釈明した、そうである。

この発言に対する批判は、菅直人氏によれば「病気の人達の気持ちを思いやっていない、そもそも病気になりたくてなったわけではない」「総理は、保険制度の本質をわかっていないのではないか」ということである。
しかし、私は、この菅氏による批判は、的がはずれているものと考える。

まず「病人の気持ちになっていない」点についてであるが、上記の発言でもわかるとおり、麻生氏は年齢の割には壮健な体力を保っている。つまり、健康人である。
健康人が、病気の人の気持がわからないのは、有る程度は当たり前というものである。
ぜんそくの人の苦しみはぜんそくの人でなければ理解しがたいと思うし、骨折の激痛はやった人でないとわからない。私も、親指を骨折してみて、初めてあのおそるべき激痛を理解した。ただ、理解したときには遅かった、もう折れていたから(笑)
健康人が病気の人の気持ちをわからないのは、兼好法師の昔からそうなのであって、なにもおかしなことではない。

では、そもそも「病気になりたくてなったわけではない」ことはどうか。
これは、まさに人生の理不尽、というほかはない。
ただ、毎晩美食に美酒ざんまいをし午前様の連続、ある日とうとう痛風になって「なりたくてなったわけではない」といったところで、果たしてどうであろうか。
もちろん、当然であるが「なりたくてなったわけではない」という弁明は、この場合にも可能である。
「なりたくてなったわけではない」のは、そらそうですな、というだけの話である。烏が黒いですな、犬が西むきゃ尾は東。はあ、そうですな。「で?」(笑)

実は、菅氏の批判の本質は「保険制度の本質」である。これこそ、総理の発言の批判をするべきポイントなのだ。
社会保険制度は、基本的に「相互扶助」の制度である。
病気になってしまう人もいれば、健康な人もいる。それらの人をごたまぜにして、みんなから醵金をとる。そうして、運悪く病気になった人にその金銭を分配する。
つまり、これは「マイナスの宝くじ」である。運が悪ければ(傷病になったとき)お金が貰える。「ありがたくない当たり」というわけである。
この「マイナスの宝くじ」であるが、ただ1点だけ、本物の宝くじと比較して問題がある。
つまり、クジは国家が強制的に買わせるのである。「私は、あたったときに多くいらないので、クジ10枚のところを5枚しか買いたくありません」と言っても無駄である。
金銭の分配、つまり支出が決まると、赤字にはできないというので、無理矢理クジを買わされてしまうのである。
では、そのクジを買わされる根拠は何か?それは、つまり「日本国民」なので「日本政府」にカネを払うのは国家権力によって認められているから、だということになる。

さて、菅氏に問いたいのは
「日本人になりたくて日本人になったわけじゃない」(=日本政府にカネを払いたくない)という反論は、「病気になりたくてなったわけではない」という批判と比べてどうであろうか。
少なくとも、まったく等価、それどころか考え方によれば成人病などのほうが予防の余地があるだけいくぶんマシなのかもしれんのだぞ。

麻生総理の発言を敷衍すれば、そこにあるのは「日本人同士が、互いを支え合う気力を無くしてきた」という真実である。
なぜ、そうなったのか。
当たり前だろう。
日本人であるから、という理由だけで「侵略国家の国民」「過去の反省をしろ」「国のためといいつつ、実は欺されただけ。早い話が馬鹿」などという言説を子守歌にして育った国民が、「相互扶助」なんて思いついたら奇跡である。

菅直人氏に言うことがあるとすれば。
おそらく、麻生総理はなんの考えもなく、ああいう「失言」をしたのであろうが(苦笑)同じ事を思う国民は少なからずいるだろう、そうして、そういう国民を作り出してきたのは、あなたのような「市民派」の努力のたまものである、ということだ。

であれば、宰相みずから「国家なんかやめちまおうか」と言い出したことに、菅氏はまさに快哉を叫ぶべきなのである。

「いやー、苦労が実りましたな。亡国の試みも、ついに成就がちかい。おめでとさん」ということですなあ。