Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

まんが勝ち逃げ資本論

「まんが勝ち逃げ資本論青木雄二

あの名作マンガ「ナニワ金融道」を描いた著者によるエッセイ、のような本。タイトルに「まんが」とあるが、著者自身の挿絵がたくさん描かれているところがミソである。

青木氏は「ナニワ金融道」で世に出るまでは、さんざん貧困な生活を送り、マルキストを自称していた。そういう意味では、昨今の「蟹工船ブーム」などよりも、遙かに時代を先取りしていたように思う。
資本主義システムを「みんなが非人間的にならなきゃやっていけなくなるシステム」だと罵倒し、一方で成功した自分自身のことを「俺は才能があるから例外」だと平然としていた。このへんの矛盾にはまったく無自覚であるあたりも、たしかにマルキストの系譜をただしく継いでいると言えるな(苦笑)。

しかしながら、青木氏の生硬の資本論は、それはそれで一本芯が通っている。
「どうせ資本主義の世の中はやったもん勝ちや。正直になんぞやっていてもええことあらへん。ウソでもなんでも突きとおせ」と主張しているのを読みつつ、不思議な気持にとらわれた。
この主張は、ウォルター・ブロックなどの「シカゴ学派」「新自由主義」の中でも、さらに急進的な無政府資本主義者の唱えるところと、うり二つだからである。
両極は一致するのかもしれないなあ。

評価はナシ。
青木雄二氏は、まごうかたなき天才であった。しかし、それはマンガの話である。エッセイは、、、正直に云えば「売り物」として成立するのは苦しいレベルにあるように思う。漫画家としては天才で、エッセイストとしてはダメ。別にそれでいいじゃないか。
人間、天才と呼ばれる実績を一つ残せれば、そりゃあ大したものだもの。

青木氏は、たしかガンで亡くなったと思うが、その死の前に「僕は唯物論者だから、死はこわくない。観念論者が死を怖がるのや」と言っていたのが記憶に残っている。
ふつうに考えれば、死の恐怖は、唯物論や観念論といった認識論の話ではない。死の恐怖があって、それはどうしてか?と考えたときに、認識論の議論が始まるものである。認識論が唯物主義だから死の恐怖はない、というのは、明らかに因果関係を逆にしているように思われる。
現実に、認識論によって死の恐怖がなくなるとすれば、それは確かに一つの悟りであろうけれども、げんに死が怖いという人にはなんの関係もない話でしかない。

動物には死の恐怖がないと考えられている。彼らは、未来を想像する能力がないので、死後の不安もないのである。死への恐怖こそ、人間に特有なものだ。もしも、死の恐怖がない者が唯物論者だというのなら、動物に先祖返りすれば、たしかに死の恐怖から逃れられるだろう。
動物的な生と、人間的な生の違いとは何か。不安を感じないで生きていくことが、果たして人間的な生といえることだろうか、と思うのである。